後漢書卷十九 祭祀志第九 祭祀下(宗廟・先農・社稷・迎春・靈星)

宗廟の創建(建武二年)

  • 光武帝は建武二年正月、雒陽に高廟を立てた。四時に祫祀(合祭)し、高帝を太祖、文帝を太宗、武帝を世宗とする旧例に倣う。他の帝は四時(春正月・夏四月・秋七月・冬十月)と臘の年五祀とする。

親廟の設置と議論(建武三年~十九年)

  • 建武三年正月、雒陽に親廟を立て、父・南頓君以上舂陵節侯までを祀ったが、賊乱がまだ収まらず正式な儀礼は未整備であった。建武十九年、盗賊がほぼ平定され、五官中郎将張純と太僕朱浮が「人の子として大宗に事える者は私親を降す礼があるべき」と上奏し、親廟を四代(南頓君・鉅鹿都尉・鬱林太守・節侯)に整理した。
  • 孝宣帝が孫として祖の後を継ぎ父の廟を奉明に立てて「皇考廟」としたのに倣うべきかが議論され、公卿・博士・議郎が審議した結果、成帝・哀帝・平帝・元帝の廟を奉じ、南頓君のために皇考廟を立てることとなった。廟の所在が定まらないうちは、高廟で成帝・哀帝・平帝を祫祭し、長安の故高廟でも祭った。南陽春陵では旧の園廟で祭祀を続けた。
  • 孝宣帝には功徳ありとして「中宗」の尊号が贈られ、雒陽の高廟で四時に加祭される帝は孝宣・孝元を含め五帝となった。西廟には成・哀・平の三帝の主を安置して四時祭る。南頓君以上節侯までは各々皇考廟・皇祖考廟・皇曾祖考廟・皇高祖考廟と称し、その郡県で祀られた。

禘祫の礼

  • 建武二十六年、張純に禘祫の礼の運用が問われ、三年に一度祫(毀廟の主を太祖廟に集めて合食する)、五年に一度禘(未毀廟の主も含め合食する)とする議を奏した。父を昭(南面)、子を穆(北面)とし、父子は並び坐さず孫が祖父に従う。
  • 禘は夏四月(陽気が上にあり陰気が下にある時期)に尊卑の序を正すもの、祫は冬十月(五穀成熟の時期)に骨肉が合い飲食するものとされるが、宗廟がまだ定まらない当時は合祭を優先し、後に三年冬に祫・五年夏に禘を行う制度が定着した。太祖は東面、恵帝・文帝・武帝・元帝を昭、景帝・宣帝を穆とし、恵帝・景帝・昭帝は殷祭(禘祫)の対象外とした。

世祖廟・歴代の追尊

  • 光武帝崩御後、明帝は「撥乱中興」の功により「世祖廟」を新たに建てた。永平三年、公卿は世祖廟の登歌・八佾の舞について議し、東平王蒼は歴代の宗廟がそれぞれ独自の楽を奏してきた例(高帝の武徳の舞、文帝の昭徳の舞、景帝の同、武帝の盛徳の舞)に倣い、世祖廟の楽を「大武の舞」とすべきと論じ、詔書もこれを許した。
  • 元帝は光武帝に対し穆にあたるため、宗ではないが廟は毀たれず常例となった。
  • 明帝は臨終の遺詔で寝廟を新たに起こさず、世祖廟に主を蔵めるよう命じた(「更衣」と呼ばれる措置)。章帝はこれを継ぎつつ「顕宗廟」の尊号を贈り、更衣で間祭、世祖廟で四時合祭とした。
  • 章帝は臨崩の遺詔で寝廟を起こさぬよう命じ、和帝は「粛宗」の尊号を贈った。以後、歴代の主は世祖廟に集められ、顕宗はただ陵寝の号となった。
  • 和帝は永元中、母梁貴人を「恭懐皇后」と追尊し、その陵に竇后を配食した。和帝崩御時は「穆宗」の号が贈られた。
  • 殤帝は生後三百余日で崩じたため廟には列せず陵寝で祭るのみとした。安帝は建光元年、祖母宋貴人を「敬隠后」、父清河孝王を「孝徳皇」、その后を「孝徳后」と追尊し、いずれも陵寝で祭った。安帝は讒言により大臣を害し太子を廃したため崩御時に宗号の上奏はなかったが、後に建武以来毀たれた例がないことから常祭とし、その陵号によって「恭宗」と称された。
  • 順帝は母を「恭愍后」と追尊し、崩御時には「敬宗」の号が贈られた(東観書に、順帝の倹約遺詔と、これに基づく尊号奏上の全文が引かれる)。
  • 沖帝・質帝は幼くして崩じたため梁太后が摂政し、殤帝の故事に倣い陵寝で祭った。桓帝は河間孝王の孫として即位し祖考を追尊、崩御時に「威宗」の号を贈られたが嗣子がなかった。霊帝は河間孝王の曾孫として即位し、同様に祖考を追尊した。

霊帝時の祭祀規模

  • 霊帝の代、京都で四時に祭る対象は、高廟五主・世祖廟七主・少帝三陵・追尊后三陵で、牲は太牢十八頭(副を含む)を用いた。高廟の三主は親が尽きた後も殷祭(禘祫)の年に奉祀された。

献帝期の廟制整理(蔡邕の議)

  • 献帝の初平年間、相国董卓・左中郎将蔡邕らは、和帝以下の功徳は歴代と異なるところがなく過分な扱いであり、宗とすべきでない者や非正統の追尊后があるとして毀廟を奏した。
  • 蔡邕は、漢の宗廟の制が周礼に基づかず帝ごとに一廟を立て続けたため昭穆の序も毀廟の制も乱れていたことを指摘し、元帝の代に丞相匡衡・御史大夫貢禹が古礼に依るべきと建議した経緯、光武帝(世祖)・明帝(顕宗)・章帝(粛宗)は前代に恥じない功徳を備えていたが、以後は政事が乱れ臣下が私情で尊号を奏したことを批判する。元帝を考廟(第八世)とし光武帝を第九世として奉じ、和帝以下の「穆宗」「威宗」などの号は省くこととし、五年ごとの殷祫の制に戻すべきとした。この議は実行され、四時に祭る対象は高廟の一祖二宗と近帝四代の合わせて七帝となった。

陵寝の制度

  • 古の宗廟は前に廟、後に寝を置き、人の住居(前に朝、後に寝)を象るものとされる。廟には主を蔵め四時に祭り、寝には衣冠・几杖など生前の道具を備えて新物を薦める。秦が初めて寝を墓側に起こし、漢もこれを踏襲したため、陵上を「寝殿」と称し起居衣服の道具を備える慣行となった。
  • 建武以来、関西の諸陵は遠隔のため四時に特牲で祭るにとどめ、皇帝が長安に行幸して諸陵を謁する際にのみ太牢で祭った。雒陽の諸陵は霊帝の代まで、晦望・二十四節気・伏臘・四時の祭日に、太官が食を送り園令・食監がこれを管理し、親陵に仕える宮人が鼓漏・寝具・盥水などを整えた。

社稷の制(建武二年)

  • 建武二年、大社稷を雒陽の宗廟の右に立てた(馬融の周礼注では社稷は右、宗廟は左とする)。方壇には屋を設けず牆と門のみを備える。二月・八月・臘の年三回、太牢を用いて有司が祠る。
  • 孝経援神契に「社は土地の主、稷は五穀の長」とあり、礼記・国語では、共工氏の子句龍が后土の官として九土を平らげたため社に祀られ、烈山氏の子柱(のち堯の代に棄=后稷に代わる)が稷に祀られたとする。大司農鄭玄は、大功ある官がその神に配食される古例(句龍を社に、棄を稷に配食)を説く。
  • 社の神格をめぐっては、荀彧の問いに仲長統・鄧義が長大な議論を交わした記録が付され、句龍が社そのものか配食かをめぐる諸説が対比される。国家は五祀(門・戸・井・竈・中霤)も社稷に準じて簡略な礼で祀る。

靈星祠(后稷を祀る)

  • 漢の八年、周が興った際に后稷の祀を邑に立てたことに倣い、高帝は天下に靈星祠を立てさせた。后稷を祀るのに「靈星」と呼ぶのは、后稷が星(天田星、または龍の左角)に配食されるためとされる。壬辰の日に祠り、太牢を用い、県邑の令長が侍祠する。舞人には童男十六人を用い、耕作の様子(芟除・耕種・芸耨・駆爵・穫刈・舂簸)を象った舞を舞わせる。

先農・風伯・雨師の祭

  • 県邑では常に乙未の日に先農を乙の方位で、丙戌の日に風伯を戌の方位で、己丑の日に雨師を丑の方位で、羊豕を用いて祀る。

立春の迎春

  • 立春の日、青幡幘を着け東郭外で春を迎える。童男一人に青巾・青衣を着せ東郭外の野に先に立たせ、迎える者が野から出てくるのを拝んで還る(祭りはしない)。他の三時(夏秋冬)には迎える儀礼はない。

史論

  • 論じて言う。臧文仲が爰居(海鳥)を祀ったことを孔子は「知らざるなり」と評した。『漢書』郊祀志によれば、秦以来王莽に至るまでの祭祀には、爰居の類のような無用の祀りが多かった。世祖(光武帝)は中興にあたり、こうした異常な祭祀を除いて旧祀を修復し、前代とは大きく異なるものとした。
  • 三皇の代には文字がなく結縄で治め、五帝の代から書契が生まれ、三王の代には彫文・詐偽が生じ印璽で姦を検めるようになったが、金玉銀銅の器はまだなかったという儒者の説を引く。
  • 泰山の封禅は上皇以来周まで七十二代に及ぶが、易姓革命の際に封を改めるのは一代の始まりを明らかにするためであり、世を継ぐ王は巡狩のたびに封を修めるにとどまる。秦始皇・孝武帝の封禅は神仙・方士の言に基づく石検・印封の類であったが、その大要はなお質素を旨とし、犠牲は犢、器は陶匏を用いるものであった。
  • 光武帝が武帝の旧封に因ろうとしたのは祖宗の道を継ぐ本義であったが、梁松が改めて封じ直すべきと固く争い、封禅の後に何の福も得られぬまま誅死したのは、罪はその身にあるとはいえ、神を誣いた咎でもあろう。帝王が後世に大きく顕彰されるのは、その徳が民に施されたことによるのであり、封禅そのものにあるのではない。
  • 六宗の解釈について、天地を語るものとして『易』に勝るものはないが、易には六宗が天地四方の中にあるという象はなく、もし本当に天地四方の宗とするなら太社より重いことになり、誠として通じがたいと結論する。

  • 天地への禋郊、宗廟への享祀は、すべて秩序立てられ乱れがない。山川の祭祀が過剰になれば国の典が紊れる。ただ皇統の紀(記録)は盛んな敬いより始まったのであり、その始まりを軽んじられようか。