後漢書卷二十 天文志第十 天文上

総説――天文観測の来歴

  • 『易』は「天は象を垂れ、聖人はこれに則る」と説く。庖犧氏が天下に王たるとき、天に象を仰ぎ観て八卦を作ったのが天文観測の始まりとされる。天の北辰・星々・二十八宿などの配置が定まり、天地の秩序が象徴された。
  • 黄帝が河図を受け、鬭苞が規を授けて日月星辰の象を定めたのが星官の書の起こりとされる。高陽氏の代には南正重が天を、北正黎が地を司った。唐虞の羲仲・和仲、夏の昆吾、殷の巫咸、周の史佚・萇弘、宋の子韋、楚の唐蔑、魯の梓慎、鄭の裨竈、魏の石申夫、斉の甘公らが代々天文を掌った。
  • 秦の焚書で経籍は失われたが星官の書だけは残った。秦史は始皇の代に彗星・大角の異変を記し、これを秦の滅亡の兆とした。
  • 漢に入り、司馬談・司馬遷父子が『史記』天官書を著し、成帝の代に劉向が『洪範』の災異説を広げて五紀・皇極の論を作った。明帝の代には班固の『漢書』を承けて馬続が天文志を述べ、のち蔡邕がこれを継いだ。
  • 本志は王莽の居摂元年(6年)から献帝の建安二十五年(220年)までの215年間の星変とその応験を記す。劉昭は張衡の『霊憲』『渾儀』の説を引いて渾天説の理を補い、蔡邕の上表(天体を論じる周髀・宣夜・渾天の三家のうち渾天説が最も実情に合うとする)も併せて記した。

王莽地皇三年(22年)

  • 十一月、彗星が張宿の東南に現れ、五日で見えなくなった。彗星(孛星)は乱兵の兆とされ、張宿は周の分野、翼軫は楚の分野にあたることから、周・楚の地に兵乱が起こる兆とされた。
  • 翌年正月、光武帝が舂陵で挙兵し、下江・新市の賊である張卬・王常や更始の兵とともに南陽で王莽軍を破り、荊州刺史(正しくは前隊大夫)甄阜・属正梁丘賜らを斬り数万を殺した。更始帝は洛陽に都したのち長安に入るが敗死し、光武帝は河北で興り再び洛陽に都した。これは周の地で穢れを除き新たに布く象とされた。

地皇四年(23年)――昆陽の戦い

  • 六月、漢軍(更始軍)が南陽から昆陽に至ると、王莽は司徒王尋・司空王邑に諸郡兵号百万(実数約四十二万)を率いさせ、兵法に通じた者六十三家を将帥とし、虎狼などの猛獣まで引き連れて威を示した。昆陽を幾重にも包囲し、衝車・雲車を用いて攻めたが、城中は水を求めて降伏を願っても許されなかった。
  • 昼に山の崩れるような雲気が軍の上に現れ、これは「営頭」の星の異変とされ、その下の軍が大敗し流血三千里に及ぶ兆とされた。実際、光武帝が数千の兵で昆陽を救援し、王尋・王邑軍を急襲すると、大風で屋瓦が飛び豪雨で滍水が氾濫し、王莽軍は同士討ちで数万が死に、滍水は死者で塞がれた。王尋は斬られ、王邑は長安へ逃げ帰った。
  • 秋、太白(金星)が太微垣に入って地を月光のように照らした。太白は兵、太微は天子の朝廷を象る。太白が北から太微に入ったのは大兵が天子の廷に入る兆とされた。実際、王莽の派遣した「九虎将軍」は華陰で漢将鄧曄・李松に破られ、十月には長安の宣平城門から漢兵が入城、翌日には少年らが蜂起して王莽の作室を焼き、商人杜呉が漸台で王莽を殺し、校尉公賓就がその首を斬った。更始帝が長安に入り、のち赤眉が劉盆子を天子に立てたのも大兵が宮廷に入る応験とされた。

光武帝建武年間の星変

  • 建武六年(30年)九月、月が太微西藩を犯し、十一月には軒轅を犯した。七年(31年)九月、鎮星(土星)が輿鬼に入り逆行、太白が太微を経過した。八年(32年)四月、月が房宿を犯して光芒が見えなくなった。九年(33年)四月、金星が婁宿南星を犯し、また軒轅第二星・心宿の火星を犯した。七月、月が昴宿を犯した。輿鬼を犯す占いは皇后に憂いありとし、房宿を犯す占いは天子に憂いありとする。
  • 建武九年(33年)七月・十一月、金星が軒轅大星を犯した。軒轅は後宮を象り大星は皇后を象るため、金星がこれを犯すのは皇后の失勢を意味するとされ、実際に郭皇后がすでに寵を失っており、のちに廃されて中山太后となり、陰貴人が皇后に立てられた。
  • 建武十年(34年)三月、流星が月ほどの大きさで太微から出て北斗魁に入り、白色で小星十余りを伴い、雷のような音を発して消えた。流星は使者の派遣を象り、太微(天子の廷)から北斗魁(殺伐を司る星)へ向かったのは、天子が大使を出して討伐させる兆とされた。実際、光武帝は大司馬呉漢に南陽の兵三万を率いさせ長江を遡って蜀の公孫述を討たせ、馬武・劉尚・郭霸・岑彭・馮駿らにも武都・巴郡を平定させた。十二年(36年)、漢軍は公孫述の従弟の永を殺し広都に至り、その女婿の史興を殺し、江州を抜いて公孫述の将田戎を斬り、涪を破って公孫述の弟大司空の恢を殺した。十一月、護軍将軍高午が公孫述を刺して殺し、翌日漢軍は成都に入って公孫述の大将公孫晃・延岑らを誅し、公孫述の妻子・宗族一万余人を滅ぼした。小星が随従したのは副将たちの象、雷のような音は将兵の怒りの兆とされた。
  • 建武十二年(36年)正月・六月、小流星が百枚以上、西北・正北・東北・四方に流れた。小星は庶民の類、流れ動くのは民の移徙の象とされた。当時、西北では公孫述討伐、北では盧芳討伐が行われ、匈奴が盧芳を助けて辺境を侵し、漢は将軍馬武・騎都尉劉納・閻興に下曲陽・臨平・呼沱に軍を置かせて備えた。匈奴の侵入で河東以北が不安定になり、米穀が高騰して民が流散した。三年後、呉漢・馬武が雁門・代郡・上谷・関西の県の吏民六万余口を常関・居庸関以東に移して胡寇を避けさせたのも、この小民流移の応験とされた。
  • 建武十五年(39年)正月、彗星が昴宿に見え、西北へ進んで営室に入り離宮を犯し、二月に東壁で消えるまで四十九日間見えた。彗星は兵起こりて穢れを除く象、昴は辺兵を象るとされ、実際に十一月定襄都尉陰承が反乱を起こし太守がこれを誅した。盧芳は匈奴に従い高柳に拠っていたが、十六年十月に降って璽綬を返上した。また昴星の変は獄事の兆ともされ、大司徒欧陽歙が事件で下獄しその年のうちに獄死した。営室は天子の常宮、離宮は妃后の居所であり、彗星が営室に入り離宮を犯したのは宮室を除く象とされ、当時すでに郭皇后は寵を失っており、十七年十月についに廃されて中山太后となり、陰貴人が皇后に立てられた。
  • 建武三十年(54年)閏月、水星(辰星)が東井二十度にあって白気を生じ、東南に炎五尺を引いて彗星となり、東北の紫宮西藩まで進んで五月に消え、三十一日間見えた。東井は水衡を象り、水星がこれより先んじて出現したのは水害が大きくなる兆とされ、この年の五月および翌年、諸郡国で大水があり城郭が壊れ禾稼が損なわれ民が死傷した。白気は喪の兆であり、紫宮(天子の宮)の藩に彗星が加わったのは宮を除く象とされ、その三年後、光武帝が崩じた。
  • 建武三十一年(55年)七月、火星(熒惑)が輿鬼に入り一度で尸星(輿鬼中の星)を出た。十月、金星が軒轅大星を犯し、また客星が現れて翌年二月まで百十三日間見えた。輿鬼は死喪を司る尸星であり、熒惑がこれに入ったのは大喪の兆、軒轅は後宮を象り客星がここに宿ったのは死喪の兆とされ、その二年後、光武帝が崩じた。
  • 中元二年(57年)八月、火星が太微西南角星を犯した。太微西南角星は将相を象り、のちに太尉趙憙・司徒李訢が事件で免官された。十月、大流星が西南から東北へ雷鳴のような音とともに流れ、これは中郎将竇固・揚虚侯馬武・揚郷侯王賞の出征を象るものとされた。