後漢書卷十八 祭祀志第八 祭祀中(北郊・増祀・明堂・六宗・辟雍・老子・靈臺・迎氣)
明堂・辟雍・霊台の制度(総論)
- 北郊・明堂の営造にあたり、周礼考工記の明堂の規格(東西九筵・南北七筵・堂の高さ一筵・五室)や、孝経援神契の「明堂は上円下方、八窓四達、政を布く宮」などの古説が引かれる。武帝の代に公玉帯が奉じた黄帝時代の明堂図(一殿四面無壁、茅葺きで水を通す)に基づき、汶水のほとりに明堂が作られた例も紹介される。
- 蔡邕『明堂論』の要旨として、明堂は天子の太廟であり、祖を配して上帝を祀る場である。夏后氏は「世室」、殷人は「重屋」、周人は「明堂」と呼び、方位ごとに青陽(東)・明堂(南)・総章(西)・玄堂(北)・太室(中)と称する。宗祀の意味では「清廟」、正室の意味では「太廟」、尊崇の意味では「太室」、向明の意味では「明堂」、四門の学の意味では「太学」、水に囲まれた形からは「辟雍」と、名は異なっても実は一つの施設を指す。堂は方百四十四尺(坤の策)、屋は円径二百十六尺(乾の策)など、寸法にも陰陽の数理が込められているとする。
呂太后の遷座と北郊の再編
- 呂太后を園に遷し、薄太后を尊号して高皇后とし、地郊・高廟に配することとした(詳細は光武紀にある)。北郊は雒陽城北四里に方壇四陛で築かれた。
北郊の実施(建武三十三年正月)
- 建武三十三年正月辛未、初めて地祗を別祀する北郊を行った。地祗の位は南面西上、高皇后は西面北上とし、いずれも壇上に置く。地理群神は壇下に従食し、元始年間の故事に倣う。中嶽は未の方位、四嶽はそれぞれの方位、海は東、四瀆(河・済・淮・江)はそれぞれの方位に配される。地祗・高后には犢各一頭、五嶽には共に牛一頭、海・四瀆には共に牛一頭、群神には共に牛二頭を用いる。楽は南郊と同様とする。
明堂での五帝祭祀(永平二年)
- 明帝永平二年正月辛未、初めて明堂で五帝を祀り、光武帝を配した。五帝の座は堂上にそれぞれの方位に配し(黄帝は未の方位)、南郊と同じ配置とする。光武帝の位は青帝の南でやや退いた西面に置く。牲は各犢一頭、楽は南郊と同様。祭祀が終わると霊台に登り雲物(気の変化)を望んだ。
五郊の迎気の制
- 永平年間より、礼讖と月令に基づき五郊の迎気(季節ごとに天帝を迎える儀礼)と服色の制を整え、雒陽の四方と中央に兆(祭壇)を設けた(中兆は未の方位、いずれも高さ三尺の壇)。
- 立春:東郊で青帝句芒を祭る。車旗服飾はすべて青、「青陽」を歌い八佾で「雲翹」の舞を舞う。文官に絹を賜う。
- 立夏:南郊で赤帝祝融を祭る。車旗服飾はすべて赤、「朱明」を歌い八佾で「雲翹」の舞を舞う。
- 立秋の十八日前:中兆で黄霊(黄帝・后土)を祭る。車旗服飾はすべて黄、「朱明」を歌い「雲翹」「育命」の舞を舞う。
- 立秋:西郊で白帝蓐収を祭る。車旗服飾はすべて白、「西皓」を歌い「育命」の舞を舞う。あわせて先虞を祭り、貙劉(射牲)の礼を行う(詳細は礼儀志にある)。
- 立冬:北郊で黒帝玄冥を祭る。車旗服飾はすべて黒、「玄冥」を歌い「育命」の舞を舞う。
章帝の増祀と泰山巡狩(元和二年)
- 章帝は元和二年正月、山川百神のうち祀るべきでまだ祀られていないものを議し増修するよう詔した。
- 二月、東巡狩して泰山に向かう途中、済陰成陽の霊台で帝堯を祀り、泰山では光武帝が造った山南壇を修めて辛未に天地群神を柴祭、壬申に武帝が汶上に作った明堂で五帝を宗祀し光武帝を配した。癸酉には高祖・太宗・世宗・中宗・世祖・顕宗を明堂で各太牢をもって告祠した。その後、東后(諸侯)を朝見し、郡国を巡り魯に幸して東海恭王と孔子七十二弟子を祠った。
- 四月、京都に還り高廟・世祖廟に告げ、霊台十二門の詩を作って各月ごとに祀り奏した。和帝の代には特に増改はなかった。
安帝の六宗祀の再興と論争(元初六年)
- 安帝は元初六年、尚書欧陽家の説(六宗とは天地四方の中で上下四方の宗とする)に対し、元始年間に王莽が「六宗とは易の六子の気(日月・雷公・風伯・山沢)」としたのは誤りであるとして、三月庚辰、雒陽の西北戌亥の地に改めて六宗の祀を立てた(太社に準ずる)。
- この決定は司空李郃の上奏に基づく。李郃は、南郊侍祠で六宗の祠が見当たらないことを指摘し、尚書「肆類于上帝、禋于六宗」の句を引いて、六宗は天地の間にあって陰陽の化成を助けるものであるとし、王莽が誤って六宗を廃したため復すべきと論じた。公卿に議させたところ、五官将弘ら三十一人が可、大鴻臚龎雄ら二十四人が不可としたが、安帝は李郃の議に従った。
- 六宗の解釈をめぐっては後代まで諸説が分かれる。歐陽和伯・夏侯建は「天地四方の間にあり陰陽の変化を助けるもの」とし、孔安国は「太昭(時)・坎壇(寒暑)・王宮(日)・夜明(月)・幽禜(星)・雩禜(水旱)の六祭」とする。劉歆は「水火雷風川沢」、賈逵は「日月星岱海河の六宗」、鄭玄は「星辰・司中・司命・風伯・雨師」とし、晋の司馬紹(東晋元帝)はこれらすべてを批判して独自の説を立てた。范寗は鄭玄の説を最も詳しいとしたが定説はなく、劉昭も六宗の解釈は諸説紛々として一つに定めがたいとする。
- 太学博士呉商は、「禋」とは煙の意で、柴を積んで牲体を焼き煙を昇らせて陽に報いる祭りであり、宗廟を祭る名ではないとする。虞喜は「地に五色あり、太社がこれを象り、五を総じて一とすれば六となる」との説を唱えたが、劉昭はこれも完全には通じないとする。
延光年間以降の巡狩
- 延光三年、安帝は東巡狩して泰山に至り柴祭し、汶上明堂を祀った(元和三年の故事に倣う)。順帝は即位後、常祀を修めた。
桓帝の老子祭祀
- 桓帝は即位十八年、神仙の事を好み、延熹八年に初めて中常侍を陳国苦県に遣わして老子を祠らせ、九年には自ら濯龍で老子を祠った。文罽(模様入りの毛氈)で壇を飾り、純金の釦器を用い、華蓋の坐を設け、郊天の楽を用いたという。