後漢書卷十七 祭祀志第七 祭祀上(光武即位告天・郊・封禪)
総論
- 祭祀の道は人類の初めからあり、豺や獺さえ祭祀を知るというから、人はなおさらである。古は質朴であったものが後に文飾を加えられてきた。王莽以前の郊祀は『漢書』郊祀志に既に著されているため、本志は中興(光武帝)以降に行われたものだけを記す。
光武帝即位の告天(建武元年)
- 建武元年、光武帝は鄗(こう)で即位し、壇を鄗の南に営んで天地を祭り告げた。元始年間の郊祭の故事に倣い、六宗・群神をすべて従わせたが、まだ祖を天に配することはせず、犠牲も質素にとどめた。
- 告文は「皇天上帝・后土神祗が眷顧して命を下し秀(光武帝の名)に元元(万民)の父母となることを属した。秀は敢えて当たらずとしたが、群下百僚が異口同音に、王莽の簒弑を秀が義兵を発して討ち、王邑の百万衆を昆陽で破り、王郎・銅馬・赤眉・青犢の賊を平定して天下を定めたことを称え、再三固辞したが、皇天の大命は留めがたいとして承けた」という趣旨。
郊祀の制度確立(建武二年)
- 建武二年正月、雒陽城南七里に郊兆を初めて制定した。鄗における先例と元始年間の故事に依り、円壇八陛(階段)を築き、中に重壇を設けて天地の位を上に南向きに置く。外壇には五帝の位(青帝は甲寅の地、赤帝は丙巳の地、黄帝は丁未の地、白帝は庚申の地、黒帝は壬亥の地)を配し、外側に紫宮を象った壝(土塁)を重ねて四通の門を設ける。日月・北斗も中営内に別に位置づける。
- 壇の陛・醊(供物台)・神の数などが精密に定められ、総計千五百十四神を祭る構成となっている。背中営の神は五星・中宮宿・五官神・五嶽の属、背外営の神は二十八宿・外宮星・雷公・先農・風伯雨師・四海四瀆・名山大川の属である。
郊祀の改訂(建武七年、杜林の議)
- 建武七年五月、光武帝は三公に「漢は堯を郊すべきか」を諮問した。侍御史杜林は上疏して、漢の興起は堯に由来するものではなく殷周とは事情が異なり、旧制どおり高帝を配するのがよいと論じた。光武帝はこれに従い、なお元年郊祀の故事に依った。
- 隴蜀平定後、郊祀を増広し、高帝を配食する位置を中壇上西面北上と定めた。天地・高帝・黄帝は各犢一頭、青帝・赤帝は共に犢一頭、白帝・黒帝は共に犢一頭、日月・北斗は共に牛一頭、四営群神は共に牛四頭を用い、犢六頭・牛五頭を要した。楽は「青陽」「朱明」「西皓」「玄冥」および「雲翹」「育命」の舞を奏する。
封禅の議論(建武三十年)
- 建武三十年二月、即位三十年を経て群臣が泰山での封禅を上言した。光武帝は「即位三十年、百姓の怨気が満ちているのに、誰を欺こう、天を欺くのか。泰山を林放にも及ばぬと見て七十二代の記録を汚してよいものか」として詔書で退けた。以後、郡県から遠く使者を遣わして虚美を称える者は罪を得ることとなり、群臣は再び言わなくなった。
- 三月、光武帝は魯に行幸し、泰山を過ぎて太守以上に告げ、承詔してかつて祭った山と梁父のことを述べさせた。虎賁中郎将梁松らは「諸侯の礼では有事の前に配林を祭るが、天子はその漸を経ずともよい」と論じた。
河図讖文による決定(建武三十二年)
- 建武三十二年正月、光武帝は斎して河図会昌符を読み「赤劉の九会、命を岱宗に岱す。慎まずして何の益あらん」の句に至り、梁松らに河洛の讖文(九世に封禅すべしとする)を再検討させ、群臣の奏上を受けてついに許した。
武帝の封禅の故事(挿話)
- かつて孝武帝も神仙を求め、方士の勧めで封禅を行おうとしたが、群儒の議が古に合わず退けられた。元封元年、東の泰山に登り石を立て(風俗通によれば高さ二丈一尺、「天に事うるに礼を以てし……」の銘文)、東方の海上に僊人を求めたが見えず、四月に封禅(方形一丈二尺、高さ九尺、下に玉牒書を蔵める)を行い、その用いた祕法は明かされないまま『漢書』郊祀志に記されるとする。
封禅の準備(規格の詳細)
- 光武帝は元封の故事に倣い、封禅に用いる方石(各方五尺、厚さ一尺を二重)・玉牒書(厚さ五寸、長さ一尺三寸、広さ五寸)・玉検・石検十枚(東西各三、南北各二、長さ三尺、広さ一尺、厚さ七寸)・金縷と水銀を練った封泥・玉璽(方一寸二分)・距石などの規格を定めた。
- 梁松は「登封の礼は皇天に功を告げ後世に垂れるものであり、旧封の石をそのまま用いるのではなく、中興を承ける皇帝として特に異なる備えをすべきである」と上疏し、新たに完青石を求め玉牒を刻ませた。
封禅への行幸(応劭『漢官』所引・馬第伯「封禅儀記」の要旨)
- 建武三十二年正月二十八日に雒陽宮を発し、二月九日に魯に到着。守謁者郭堅伯が徒五百人を率いて泰山道を治め、十五日から斎戒に入った(皇帝は太守府舎、諸王は府中、諸侯は県庭、群臣百官は城外の汶水上で斎戒)。太尉・太常らは先に山を登って祭壇や旧明堂宮を視察した。
- 登山の道は険しく、天関に至るまで羊腸のごとく曲がりくねり、綱を頼りに登る難所であったことが克明に記される。二十一日夕方には泰山の上空に雲気が宮闕のように立ち現れ、瑞祥とされた。
刻石文(建武三十二年二月)
- 「維(こ)れ建武三十有二年二月、皇帝東廵狩して岱宗に至り柴(さいし、燎祭)す。山川に望秩し群神に班す」という句で始まる刻石文が立てられた。文中には河図赤伏符・河図会昌符などの讖文(「劉秀兵を発して不道を捕う」「赤帝九世廵省す」等)が引かれ、王莽簒奪の混乱から光武帝が中興を果たした経緯、明堂・辟雍・霊台の建設、律度量衡の統一、五礼・五玉・三帛・二牲・一死・贄の制の整備などが述べられ、建武三十二年二月辛卯に泰山に登り封じ、甲午に梁陰で禅じたことが記される。
封禅の実施
- 二十二日辛卯の早朝、泰山の下南方で天を燎祭し、群神を従え南郊と同様の楽を奏した。諸王・二王の後・孔子の後裔褒成君らが助祭した。
- 昼過ぎ、輦で山に登り、日中を過ぎて山上に至り更衣、群臣が壇の北面に位置を定める。尚書令が玉牒を奉じ、皇帝自ら一寸二分の璽で封をし、太常が命じて壇上の石を発かせ、玉牒を蔵めて石を覆い、尚書令が五寸の印で石検を封じた。事終わって皇帝が再拝し、群臣が万歳を称えた。
- その後、刻石碑を立てて山を下った。下山は険阻で、百官の隊列は二十余里に及び、夜半過ぎまでかかったが、負傷者は一人も出なかったという。
- 二十五日甲午、梁陰で地を禅祭し、高后(呂后)を配して山川群神を従え、元始年間の北郊の故事に倣った。
事後の措置
- 四月己卯、大赦天下を行い、建武三十二年を「建武中元元年」と改元、泰山周辺の博・奉高・嬴の三県の租税・芻藁を免除した。玉牒書を函に入れ金匱に納め璽印で封じ、乙酉、太尉に特牲をもって高廟に告げさせ、玉牒を高廟の室の西壁石室(高帝の主室の下)に蔵めた。
袁宏の論(封禅の意義)
- 天地は万物の官府、山川は雲雨の丘墟であり、王者の経略は天地を本とし、諸侯の職務は山川を主とする。封禅とは成功を神明に告げる王者開務の大礼であり、徳が周く行き渡らず功が広く済われなければ、みだりに議すべきものではない。歴代でも黄帝・堯舜・三代がそれぞれ一度行ったのみで、代々修めるものではなかった。神道は貞一にして煩を用いず、天地は易簡にして質を尚ぶゆえ、封禅の礼は本来簡素であるべきで、金函玉牒のような華美は天地の本性にはそぐわない、と論じる。