後漢書卷十六 禮儀志第六 禮儀下(大喪・王・列侯始封・貴人・公主薨・諸侯)
不豫(発病)から崩御まで
- 天子が病めば、太医令丞が医を率いて入り薬を進め、中常侍・小黄門が先に薬を嘗める。公卿朝臣は絶えず起居を問い、太尉は南郊に、司徒・司空は宗廟・五嶽四瀆・群祀に告げて快癒を祈る。
- 崩御(登遐)すると、皇后が三公に喪事を主宰させる。百官は白単衣・白幘を着け冠せず、城門・宮門を閉じ、中黄門・虎賁羽林らが厳重に警備し北軍五校が宮を囲んで屯兵する。三公が遺体を検め、皇后・皇太子・皇子が哭踊し、沐浴・飯唅(口に珠玉を含ませる)・槃冰(遺体を冷やす)を礼のとおり行う。
- 崩御の当夜、竹使符を下して郡国二千石・諸侯王に告げ、符が到れば伏して哭する。
小斂・大斂
- 小斂では東園匠・考工令が奏して東園秘器(棺)を用意する(表裏洞赤、虡文に日月・鳥亀・龍虎・連璧・偃月・牙檜を画いた梓宮)。
- 大斂は両楹の間で行い、五官・左右虎賁羽林の五将が部を率い虎賁戟を執って殿の端門を守る。大鴻臚が九賓を配し、諸侯王・宗室四姓小侯・三公・特進以下が位に就く。皇后・貴人・公主・宗室婦女・皇太子・皇子が伏して哭し、三公が梓宮に珪璋等を納める。
- 東園匠・武士が釘を打ち、太常が太牢を供え、尚書が顧命を奏し、太子がその日のうちに柩前で即位する。
嗣子の即位
- 太尉が阼階を昇り柩前で策を読み、伝国の玉璽綬を皇太子に授けて即位させ、中黄門が随侯珠・斬蛇宝剣を太尉に授け群臣に告げると、群臣は伏して万歳を称える。大赦天下を行うこともある。使者を遣わして城門・宮門を開かせ屯衛の兵を罷める。
服喪の制
- 百官は五日に一度会し臨む。故吏二千石・刺史や京都・郡国の上計掾史も五日に一度会する。天下の吏民は喪に臨むこと三日(葬送の二日前から朝夕に臨む)。葬儀が終われば服を釈き、婚姻・祭祀を禁じない。
- 佐吏以下は布衣冠幘、絰帯は三寸を超えない。大司農が銭穀を出し、六丈布の代を給する。喪服の期間は大紅十五日・小紅十四日・纎七日で釈服する。
- 部刺史・二千石・列侯(在国者)・関内侯・宗室長吏は郵便で、諸侯王は大夫一人を遣わして奏し弔う。
陵墓の造営と葬送の儀
- 重(棺を覆う仮構造物、高さ九尺)を木で作り葦席で裏打ちし、喪帳は簟(たかむしろ)で作る。車は輔轓を去り疏布の悪輪を用いる。太僕が四輪の輈で賔車を作り、大練で屋幙とする。
- 司空が土地を選び穴を穿ち、太史が日を占う。作られる陵は黄腸題湊・便房を備える(古今注に前漢諸帝の寿陵の規模が詳しく記される。天子は即位の翌年から将作大匠が陵地を営み、方中の広さは一頃、深さ十三丈、堂壇の高さ三丈、墳の高さ十二丈が通例で、武帝の墳は二十丈に及んだという)。
- 大駕(葬列)は方相氏(黄金四目・熊皮・玄衣朱裳で戈盾を執る)を先頭に、天子之柩と書いた旐(幟)を掲げ、大駕鹵簿・喪服の行列を組んで進む。
- 太尉が南郊で諡策を奏上し、太祝が諡策を読み、皇帝が柩を送り、羨門(墓道入口)で九賔・諸侯王公・特進以下が整列する。輓(柩を引く綱)は長さ三十丈・太さ七寸、六行五十人ずつ計三百人が引く。羽林孤児・巴俞の擢歌者六十人が六列で歌う。
明器(副葬品)の目録
- 筲(穀物入れ)八個(各容量三升、黍・稷・麦・粱・稲・麻・菽・小豆を一つずつ)、甕三個(醯・醢・屑を各一つ)、甒二個(醴・酒を各一つ)、瓦鐙一、彤矢四(軒輖中・骨短衛)、彤弓一、巵八、牟八、豆八、籩八、槃匜一具、杖・几・蓋各一、鍾十六(虡なし)、鎛四(虡なし)、磬十六(虡なし)、壎一、簫四、笙一、箎一、柷一、敔一、瑟六、琴一、竽一、筑一、坎侯一、干戈各一、笮一、甲一、冑一、輓車九乗、芻霊(草人形の馬)三十六匹、瓦竈二、瓦釡二、瓦甑一、瓦鼎十二(各容量五升)、匏勺一、瓦案九、瓦大杯十六、瓦小杯二十、瓦飯槃十、瓦酒樽二、匏勺二、祭服・衣を送る。これらをすべて備え終えると哭礼を行う。
贈玉・虞祭・立主
- 皇帝が贈位に進み、侍中が鴻洞(副葬の壺)に贈玉珪(長さ一尺四寸)・贈幣(玄三・纁二、各長一尺二寸)を捧げ、皇帝が跪いて羨道の房戸で西向きに贈物を投じる。東園匠がこれを封じて房中に蔵める。
- 復土(土を盛る)を終えると、皇帝・皇后以下は麤服を去り大紅服に着替えて還宮し、廬に反り主(位牌)を立てる。桑木の主は一尺二寸で諡を書かない。虞礼が終わると廟に祔(合祀)する。
- 以後、大紅から小紅、纎、留黄冠、常冠へと段階的に服喪を軽くしていき、その都度陵に詣で会する。
歴代帝陵の規模(古今注)
- 光武帝原陵:山方三百二十三歩、高さ六丈六尺、隄封田十二頃五十七畝八十五歩。雒陽の東南十五里。
- 明帝顕節陵:山方三百歩、高さ八丈、隄封田七十四頃五畝。雒陽の西北三十七里。
- 章帝敬陵:山方三百歩、高さ六丈二尺、隄封田二十五頃五十五畝。雒陽の東南三十九里。
- 和帝慎陵:山方三百八十歩、高さ十丈、隄封田三十一頃二十畝二百歩。雒陽の東南四十一里。
- 殤帝康陵:山周二百八歩、高さ五丈五尺、隄封田十三頃十九畝二百五十歩。雒陽の四十八里。
- 安帝恭陵:山周二百六十歩、高さ十五丈(帝王世紀は十一丈とする)、隄封田十四頃五十六畝。雒陽の西北十五里。
- 順帝憲陵:山方三百歩、高さ八丈四尺、隄封田十八頃十九畝三十歩。雒陽の西北十五里。
- 冲帝懐陵:山方百八十三歩、高さ四丈六尺、隄封田五頃八十畝。雒陽の西北十五里。
- 質帝静陵:山方百三十六歩、高さ五丈五尺、隄封田十二頃五十四畝。雒陽の東三十二里。
- 桓帝宣陵:山方三百歩、高さ十二丈。雒陽の東南三十里。
- 霊帝文陵:山方三百歩、高さ十二丈。雒陽の西北二十里。
- 献帝禅陵:墳を起こさず深さ五丈、前堂方一丈、後堂方一丈五尺、角広六尺。河内山陽の濁城の西北。
魏文帝の終制(薄葬論、劉昭の付記)
- 魏文帝の終制に、漢文帝が覇陵を厚葬しなかった賢明さと、光武帝の原陵が明帝の代に暴かれた(董卓伝によれば呂布が諸帝陵を発掘した)不幸とを対比し、厚葬こそが盗掘を招く禍の根源であると論じる一文が引かれる。
- あわせて『呂氏春秋』の一節(薄葬こそが真に親を愛し安んずる道であり、厚葬は結局盗掘によって親を辱めることになるという議論、堯・舜・禹の薄葬の故事、季孫の厚葬を孔子が止めた故事)が引かれる。
太皇太后・皇太后の喪
- 太皇太后・皇太后の崩御では、司空が特牲をもって諡を祖廟に告げる。長楽太僕・少府・大長秋が喪事を主る。三公は制度を奏する。
- 合葬の場合は羨道を開通し、皇帝が便房を謁し、太常が羨道まで導く。
諸侯王・列侯始封・貴人・公主の喪
- 諸侯王・列侯始封・貴人・公主が薨じた際は、印璽・玉柙(大貴人・長公主は銀縷、諸侯王・貴人・公主・公・将軍・特進は銅縷)を贈り、宮中の器二十四種を賜う。使者が喪事を治め栢棺を作り、百官が会し送る。
- 諸侯王・公主・貴人は樟棺洞朱に雲気を画き、公・特進は樟棺黒漆、中二千石以下は坎侯漆とする。
- 朝臣中二千石・将軍・使者が弔祭し、郡国二千石以下黄綬に至るまで常車・駅牛を賜い、佐史以上は大斂に朝服で臨む。君主が自ら弔問または使者を遣わす場合、喪主は絰を免じ杖を去って迎える(尊者に対して凶服のままでいることを憚る礼)。
- 王・主・貴人以下佐史に至るまで、送葬の車騎・導従の吏卒はそれぞれの官位に応じた飾り(蓋の龍首魚尾・華布牆・纁上周交絡・雲気の画・輜車の左龍右虎朱鳥玄武など)を用いる。諸侯王の傅・相・中尉・内史が喪事を典り、大鴻臚が諡を奏し、天子の使者が璧帛を贈る。
贊
- 大礼は簡素であっても、その規範(鴻儀)は容(かたち)を備える。天は尊く地は卑しく、君は荘重に臣は恭しく、質と文とは通じ変じ、哀と敬とは相交わって従う。この元の秩序が立てば、家も国もいよいよ隆んになる。