後漢書卷十五 禮儀志第五 禮儀中(立夏・桃印・請雨・黄郊・拜皇太子・拜王公・立秋・貙劉・案戸・祠星・土牛・立冬・遣衛士・冬至の会・臘・大儺)
立夏・季夏の礼
- 立夏の日、夜漏が尽きる五刻前から京都百官は赤衣を着ける。季夏になると黄衣に改め、黄郊で竈を祀る特別の祭祀を行う。
雩(求雨)の礼
- 立春から立夏、立秋までの間、郡国は雨量を上奏し、少府・郡県は社稷を掃除する。旱魃の際は公卿・官長が順に雩の礼を行って雨を求める。
- 董仲舒の説く求雨の法として、季節ごとに壇の方角・色・牲・龍の色と大きさ・祝詞・舞人の年齢と衣の色を変える詳細な儀礼が伝わる(春は東門外・青、夏は南門外・赤、季夏は南門外・黄、秋は西門外・白、冬は北門外・黒)。雨を得れば豚一頭・酒・塩・黍で報謝する。
- 止雨の礼として、諸陽を閉じ皂(黒)を興し、土龍を作る(応龍の伝説に基づく)。求雨には朱索で社を反り拘き朱鼓を伐つ儀礼もある。
拜皇太子の儀
- 百官が位に就いた後、謁者が皇太子を殿下に導き北面させ、司空が策書を読み上げる。中常侍が璽綬を東向きに授け、皇太子は再拝三稽首する。三公は昇殿して万歳を賀し、大赦天下を行う。
拜諸侯王公の儀
- 謁者が拝を受ける者を導き、光禄勲が策書を読む。璽印綬は尚書郎から侍御史を経て授けられ、王公は再拝頓首する。
- 劉昭の付記として、皇后冊立の儀の記録が本志に欠けるため、蔡質の記した霊帝建寧四年の宋皇后冊立の儀(尚書らの上奏文・策文・璽綬授受の次第)を代わりに載せる。太尉が使持節として璽綬を奉じ、皇后は北面して拝し「臣妾」と称する。
仲夏(桃印の礼)
- 仲夏、万物が盛んになり夏至を迎え陰気が萌すため、朱索で葷菜・彌牟・朴蠱を連ね、桃印(六寸四方、五色の文字)を門戸に施す。夏后氏は金行のため葦茭を作り、殷人は水徳のため螺首、周人は木徳のため桃を用いる。漢は両者を兼ね、五月五日に朱索・五色印を門戸の飾りとして悪気を防ぐ。
- 夏至の日は火を興すことや消石の冶を禁じ、井戸を浚(さら)い、冬至には火を鑽(き)り改める。
立秋の礼
- 立秋十八日前、黄帝を郊で迎える(京都百官は黄衣、黄鍾の宮の楽を奏し「帝臨」を歌い干戚の舞を舞う)。
- 立秋の日、京都百官は白衣(皂の縁)を着け白郊で気を迎え、礼が終われば絳衣に改め立冬まで着る。
- 立秋の礼が終わると威武を揚げ、郊の東門で牲(鹿の子)を斬って陵廟に薦める。天子は戎路に乗り白馬朱鬛を御し、自ら弩で牲を射る。
- この儀礼を「貙劉」といい、武官が孫呉の兵法による六十四陣(「乗之」という)を演習する。使者を遣わして武官に束帛を賜う。
- 貙劉の礼では先虞(狩猟の神)を祀り、烹(に)た牲を献じたのち射牲する。
仲秋・季秋の礼
- 仲秋、県道は戸籍を調べ、七十歳になった者に玉杖を授け粥を賜る(八十・九十歳にはさらに加賜する)。玉杖の頭には「噎(むせ)ない鳥」とされる鳩が飾られる。この月、都の南郊の老人廟で老人星を祀る。
- 季秋、城南の壇(心星廟)で星を祀る。
立冬・冬至の礼
- 立冬の日、京都百官は皂衣を着け黒郊で気を迎え、礼が終われば絳衣に改めて冬至まで着る。
- 冬至の前後、君子は身を安んじ体を静め、百官は政務を絶ち吉辰を選んでから政務を再開する(絶事の日は絳衣を着け立春まで続く)。冬至・夏至は陰陽・晷景(日影)の長短の極みであり、微気の生ずる時とされる。
- 冬至には「八能の士」八人が、黄鍾の律を吹く・鍾を撞く・晷景を測る・水の軽重を量る・磬を撃つ・瑟を鼓く・鼓を撃つなど、それぞれの技をもって天文(暦)を成す儀礼を行う。太史令が儀を主宰し、八能の士が音の調不調から君道・臣道・法度・民道・四海の状況を占って板書し、皂囊に封じて上奏する。
- 夏至にも同様の礼を行うが、冬至は陽気の起こりで君道が伸びるため賀し、夏至は陰気の起こりで君道が衰えるため賀さない。
季冬・臘の礼
- 季冬、星が巡り歳が終わり陰陽が交わる時期に、農を労い大いに享(あら)い臘(年末の大祭)を行う。
- 臘の前日に大儺(追儺)を行い「逐疫」という。中黄門の子弟十歳から十二歳までの百二十人を侲子とし、赤幘・皂製を着け大鼗を執らせる。方相氏は黄金四目・熊皮を被り玄衣朱裳で戈と盾を執り、十二獣の扮装をした中黄門とともに宮中の悪鬼を追う。
- 侲子が「甲作は㾮を食い、胇胃は虎を食い……」という呪文を唱和し、十二神を使って凶悪を追い払う。
- 方相氏と十二獣が舞い呼び、炬火で疫を端門の外へ送り出し、宮司馬闕門外の五営騎士が火を伝えて雒水に投げ捨てる。百官の官府もそれぞれ木面の獣で儺を行う。終えると桃梗・鬱儡・葦茭を戸口に設ける(黄帝が神荼・鬱儡の伝説に倣ったとされる)。
- 葦戟・桃杖を公卿・将軍・列侯・諸侯に賜う。
- この月、土牛六頭を国都・郡県の城外の丑の方角に立て大寒を送る。
故衛士を饗し送る儀
- 百官が位に就くと、謁者が節を持って故衛士を端門から導き入れ、侍御史が節を持って詔恩をもって慰労し、疾苦や上奏したいことを尋ねる。饗宴・作楽・角抵の見世物を行い、農桑に励むよう勧めて送り帰す。
毎月朔・歳首の大朝賀
- 毎月朔と歳首には大朝を行い賀を受ける。夜漏が尽きる七刻前、鍾が鳴って賀と贄(貢物)を受ける。公侯は璧、中二千石以上は羔、千石・六百石は雁、四百石以下は雉を用いる。
- 二千石以上は昇殿して万歳を称える。三公は璧を奉じて御座に進み、司空が羹を、大司農が飯を奉じて食挙の楽を奏する。百官は賜宴・饗を受け大いに楽を作す。
- 蔡質漢儀によれば、正月元旦、天子は徳陽殿に幸し、公卿将軍百官・蛮貊胡羌の朝貢使・郡の計吏らが集い、万人以上が並ぶ盛大な儀礼となる。宴では舎利(獣の演目)・比目魚・黄龍の変化・綱渡りの女楽人・魚龍曼延の見世物などが披露される。徳陽殿は万人を容れる規模で、階は二丈、文石造りの壇に水を引いた沼を設け、朱梁玉階金柱で宮掖の美を尽くしたという。
- 毎月の朔賀は十月朔のみ旧例により行う。これは高祖が秦の正月(十月)を継いで元年の歳首としたことに由来する。蔡邕が胡広に尋ねたところ、頻繁な朝賀を先帝が省いたため六月・十月朔のみ行うようになったという。
- 蔡邕『礼楽志』によれば、漢の楽には四品ある。一に大予楽(郊廟・上陵・殿中の食挙の楽)、二に周頌雅楽(辟雍饗射・六宗社稷の楽)、三に黄門鼓吹(群臣を宴楽する楽、短簫鐃歌は軍楽で黄帝・岐伯の作という)、四に(省略、章帝の食挙四章・雲台十二門詩などが挙げられる)。