後漢書卷二 明帝紀第二
後漢第二代皇帝、明帝(諱は莊、光武帝の第四子、母は陰皇后。?–75年、享年四十八)。皇太子として学問を修め、中元二年に光武帝の崩御を承けて即位した。楚王英の謀反鎮圧、汴渠の治水、西域都護の再置など内政・辺境政策を進め、建武・永平の治として後世範とされた。
出自と生い立ち
- 顯宗孝明皇帝、諱は莊。光武帝の第四子で、母は陰皇后。生まれつき額が張り出した容貌であったという。十歳で春秋に通じ、光武帝はその才を奇としたという。
- 建武十五年(39年)東海公に封じられ、十七年(41年)に王に進み、十九年(43年)皇太子に立てられた。博士桓栄に師事して尚書を学んだ。
- 中元二年(57年)二月戊戌、皇帝に即位(年三十)。皇后を尊んで皇太后とした。三月丁卯、光武帝を原陵に葬り、有司が廟号を世祖と奏上した。
中元二年(57年)
- 夏四月丙辰、即位の詔を下した。先帝の中興の徳を称え、天下の男子に爵二級、三老・孝悌・力田には三級、流民で名籍のない者にも一級を賜り、爵が公乗を超える者は子や同産に移すことを認めた。鰥寡孤独・篤癃には粟十斛を賜り、中元元年四月己卯の赦令前の犯罪で後に捕らえられた者は皆刑を免じ、辺境で乱により内郡人の妻となった者は帰郷を許した。中二千石以下黄綬までの官で秩を貶され贖罪をしていた者は復秩・還贖とした。
- 秋九月、燒當羌が隴西に侵入し、允街で郡兵を破った。隴西の囚徒の罪を減じ、今年の租調を免除し、徴発した天水の兵三千人にも同様の恩典を与えた。遣謁者張鴻を允吾に派遣して討たせたが、大敗し戦死した。
- 冬十一月、中郎将竇固・監捕虜将軍馬武ら二将軍を派遣して燒當羌を討たせた。
- 十二月甲寅、農時を妨げぬよう有司に命じる詔を下し、亡命者や殊死以下の罪を贖罪により許す規定(絹の匹数による段階的な贖罪額)を定めた。選挙の不実、邪佞な権門への請託、貪吏の恣意的な収奪を戒める詔も併せて発した。
永平元年(58年)
- 春正月、帝は公卿以下を率いて原陵に朝し、元会の儀に倣った。
- 夏五月、太傅鄧禹が薨じた。戊寅、東海王彊が薨じ、司空馮魴に節を持たせて喪事を監せしめ、龍旂などを賜った。六月乙卯、東海恭王を葬った。
- 秋七月、捕虜将軍馬武らが燒當羌を大破し、士卒を募って隴右を戍らせ、銭三万を賜った。八月戊子、山陽王荆を広陵王に徙し、国に就かせた。
- 是歳、遼東太守祭彤が鮮卑を使って赤山烏桓を大破し、その渠帥を斬った。越嶲の姑復夷が叛いたが、州郡がこれを討平した。
永平二年(59年)
- 春正月辛未、光武帝を明堂に宗祀し、帝と公卿列侯が初めて冠冕衣裳を着けて礼を行った。
- 禮畢りて霊台に登り、驃騎将軍・三公に詔して明堂における配祀の意義を述べさせ、時令を班布して群后に勅した。
- 三月、辟雍で大射礼を初めて行った。秋九月、沛王輔・楚王英・済南王康・淮陽王延・東海王政が来朝した。冬十月壬子、辟雍に幸して初めて養老礼を行い、三老・五更を敬い、爵関内侯・食邑五千戸を桓栄に賜った。三老には酒一石・肉四十斤を賜った。
- 甲子、中山王焉が就国。十一月西巡狩し、長安に幸して高廟を祠り、十一陵に事を行った。十一月遣使者を蕭何・霍光の墓に遣わし中牢を以て祠らせた。十二月護羌校尉竇林が獄に下り死んだ。是歳、初めて五郊で気を迎える祭を行った。少府陰就の子豊がその妻酈邑公主を殺し、就は連座して自殺した。
永平三年(60年)
- 春正月癸巳、霊台で史官の天文観測を視た帝は、水旱不節・辺人の食糧不足を政の失として詔を下した。
- 二月甲寅、太尉趙憙・司徒李訢が免ぜられ、丙辰左馮翊郭丹が司徒、己未南陽太守虞延が太尉となった。甲子、貴人馬氏を皇后に立て、皇子炟(後の章帝)を皇太子とした。爵位・粟の賜与を行った。
- 夏四月辛酉、皇子建を千乗王、羡を広平王に封じた。六月丁卯、天船北に彗星が現れた。伊洛の水が溢れ、津城門に及んだ。秋八月戊辰、大楽を大予楽と改めた。壬申晦、日食があり、帝は自らの不徳を責める詔を発した。
- 冬十月、光武廟で烝祭を行い、文始・五行・武徳の舞を初めて奏した。甲子、皇太后に従い章陵に幸し、旧廬を観た。是歳、北宮及び諸官府を起こし、京師・郡国七箇所が大水に見舞われた。
永平四年(61年)
- 春二月庚戌、驃騎将軍東平王蒼が罷めて藩に帰り、瑯邪王京が国に就いた。
- 冬十月、鄴に行幸し趙王栩と会した。常山の三老が、上(帝)の生地である元氏の田租・更賦の優遇を願い出、帝はこれを許し六歳分の免除と縣掾史・門闌走卒への労賜を行った。
- 十一月、北匈奴が五原に侵入し、十二月には雲中に侵入したが南単于がこれを撃退した。是歳、内郡にいる辺境出身者に装銭一人二万を賜り帰還させた。
永平五年(62年)
- 春正月、沛王輔・楚王英・東平王蒼・淮陽王延・瑯邪王京・東海王政・趙王盱・北海王興・斉王石が来朝した。
- 二月、雒山より宝鼎が出土し、廬江太守がこれを献じた。夏四月甲子、九牧の金を集めて鼎を鋳た夏禹の故事を引き、公卿の奉職を戒め、鼎を宗廟に陳ねて三公・九卿以下に帛を賜る詔を下した。虚飾の奏事を禁じた。
- 冬十月、魯に行幸して東海恭王陵を祠り、沛王輔・楚王英・済南王康・東平王蒼・淮南王延・瑯邪王京・東海王政と会した。十二月、陽城に還幸して中岳を祠らせ、東平王蒼・瑯邪王京は駕に従い、皇太后に朝した。
永平七年(64年)
- 春正月癸卯、皇太后陰氏が崩じ、二月庚申、光烈皇后として葬られた。秋八月戊辰、北海王興が薨じた。是歳、北匈奴が使いを遣わして和親を乞うた。
永平八年(65年)
- 春正月己卯、司徒范遷が薨じた。三月辛卯、虞延が司徒、衛尉趙憙が太尉事を行うこととなり、越騎司馬鄭衆を北匈奴への使いとした。初めて度遼将軍を置き五原曼柏に屯させた。秋、郡国十四で水害。
- 冬十月、北宮が完成した。丙子、辟雍に臨んで三老五更を養う礼を行い、詔して郡国・中都官の死罪囚を減罪し、笞刑を科さず度遼将軍の営に詣らせ朔方・五原の辺県に屯させた。妻子の随行や父母同産の代替を許し、大逆無道の殊死は蚕室送りとした。
- 壬寅晦、日食があり既(皆既)に至った。帝は自らの不徳を責め、群臣に上封事を命じ、章を覧て深く自ら咎を引いた。
- 十一月、楚王英が謀反により国を廃され涇県に遷され、連座して死徙した者は数十人に及んだ。是歳、斉王石が薨じた。
永平十年(67年)
- 春二月、広陵王荆が罪により自殺し、国を除いた。夏四月戊子、大赦の詔を下した。
- 閏月甲午、南巡狩して南陽に幸し章陵を祠り、旧宅を祠った。校官の弟子に雅楽を作らせ、帝自ら塤・篪を吹いて娯しんだ。南頓に幸して三老・官属を労饗した。
- 冬十月、淮陽王延・沛王輔を召し会し、十二月甲午、車駕は還宮した。
永平十一年(68年)
- 春正月、沛王輔・楚王英・済南王康・東平王蒼・淮陽王延・中山王焉・瑯邪王京・東海王政が来朝した。秋七月、司隷校尉郭霸が獄に下り死んだ。是歳、漅湖より黄金が出、廬江太守がこれを献じ、麒麟・白雉・醴泉・嘉禾が各地に現れた。
永平十二年(69年)
- 春正月、益州徼外の哀牢王が相率いて内属し、永昌郡を置いて益州西部都尉を廃した。夏四月、将作謁者王吳を遣わし滎陽から千乗海口まで汴渠を修めさせた。
- 五月丙辰、爵・粟の賜与を行った。曾参・閔損の孝行、孔子が子鯉を葬った際の簡素さを引き、葬送の奢侈を戒める詔を下した。
- 秋七月乙亥、司空伏恭が罷め、乙未大司農牟融が司空となった。冬十月、司隷校尉王康が獄に下り死んだ。是歳、天下は安平で徭役なく、豊作が続き粟の価は斛三十銭、牛羊が野に満ちたという。
永平十三年(70年)
- 春二月、帝は籍田を耕し、観る者に食を賜った。三月、河南尹薛昭が獄に下り死んだ。夏四月、汴渠が完成し、辛巳滎陽に行幸して河渠を巡った。
- 乙酉、汴渠決壊六十余年来の水害を憂い、王景らの治水事業により隄門を築き汴・河を分流させた経緯を述べる長い詔を下し、河神を祠り、瓠子の故事に自らを比した。
- 冬十月壬辰晦、日食があり、三公が冠を免じて自劾したが、帝はこれを制止し、有司の隠蔽を戒める詔を下した。十一月、楚王英の謀反に連座して徙された者数十家を本郡に帰す詔を下した。
- 十一月、楚王英の事件に連座した者を涇県に遷したことに関連し、数十人が処罰された。是歳、斉王石が薨じた〔既述、永平八年の重複記事に対応〕。
永平十四年(71年)
- 春三月甲戌、司徒虞延が免ぜられ自殺した。夏四月丁巳、鉅鹿太守南陽の邢穆が司徒となった。前楚王英が自殺した。五月、故広陵王荆の子元寿を広陵侯に封じ、寿陵の造営を始めた。
永平十五年(72年)
- 春二月庚子、東巡狩し偃師に幸した。亡命者・殊死以下の贖罪規定を定めた。沛王輔・瑯邪王京・東平王蒼・広陵侯とその三弟らを召し会し、魯で東海恭王陵を祠り、孔子の宅を祠って七十二弟子を祀り、講堂で親しく講義を聴いた。皇太子・諸王に経を説かせた。
- 東平・大梁を経て定陶に至り定陶恭王陵を祠った。夏四月庚子、車駕還宮。信都を楽成国、臨淮を下邳国と改めた。皇子恭を鉅鹿王、党を楽成王、衍を下邳王、暢を汝南王、昞を常山王、長を済陰王に封じた。爵・帛の賜与と大酺五日を行った。
- 乙巳、大赦。冬、車騎して上林苑で校猟した。十二月、奉車都尉竇固・駙馬都尉耿秉を涼州に屯させた。
永平十六年(73年)
- 春二月、太僕祭彤を高闕に、奉車都尉竇固を酒泉に、駙馬都尉耿秉を居延に、騎都尉来苗を平城に出し、北匈奴を伐たせた。竇固は呼衍王を天山で破り、伊吾盧城に屯兵を留めた。耿秉・来苗・祭彤は功なく還った。
- 夏五月、淮陽王延の謀反が発覚し、癸丑司徒邢穆・駙馬都尉韓光が事に連座して獄死し、連座して誅死した者が甚だ多かった。戊午晦、日食。六月丙寅、大司農西河の王敏が司徒となった。
- 秋七月、淮陽王延を阜陵王に徙封した。九月丁卯、郡国中都官の死罪繋囚を減罪し朔方・敦煌の軍営に詣らせる詔を下した。是歳、北匈奴が雲中に侵入し、雲中太守廉範がこれを撃破した。
永平十七年(74年)
- 春正月、甘露が甘陵に降り、北海王睦が薨じた。二月乙巳、司徒王敏が薨じ、三月癸丑、汝南太守鮑昱が司徒となった。是歳、甘露が頻りに降り木連理が現れ、芝草が殿前に生じ、五色の神雀が京師に翔集し、西域の哀牢・儋耳・僬僥・槃木・白狼・動黏の諸種が前後して来貢した。西域諸国も子を入侍させた。
- 夏五月戊子、公卿百官が祥瑞を寿ぎ奉觴し、帝はこれを高祖・光武の聖徳によるものとして辞退せず、爵・粟の賜与を行った。
- 秋八月丙寅、武威・張掖・酒泉・敦煌の繋囚のうち右趾以下で兵役に堪える者を許し軍営に詣らせた。冬十一月、奉車都尉竇固・駙馬都尉耿秉・騎都尉劉張を敦煌の昆侖塞に遣わし、蒲類海で白山の虜を撃破して車師に入った。初めて西域都護・戊己校尉を置いた。是歳、天水を漢陽郡と改めた。
永平十八年(75年)
- 春三月丁亥、亡命・殊死以下の贖罪規定を改めて定める詔を下した。夏四月己未、旱魃と宿麦の被害を憂え、爵・粟を賜与し理冤獄を命じ、五岳四瀆と名山大川に雨乞いの祭祀を行わせた。
- 六月己未、太微に彗星が現れ、焉耆・亀茲が西域都護陳睦を攻めてその衆を全滅させ、北匈奴と車師後王が戊己校尉耿恭を包囲した。
- 秋八月壬子、帝は東宮前殿で崩じた。年四十八。遺詔により寝廟を起こさず、主を光烈皇后の更衣別室に蔵めさせた。帝は自ら寿陵の制を作り、流水のみとし石槨は広一丈二尺・長二丈五尺で墳を起こさず、百日を過ぎれば地を掃いて祭り杆水・脯糒のみとするよう命じた。
- 帝は建武の制度を遵奉し、後宮の家を封侯させず政に与らせなかった。館陶公主が子のために郎を求めたが許されず、代わりに銭千万を賜った。
治世の評
- 明帝は刑理法令に明るく、日晏くまで朝に坐して幽枉を必ず理し、内外に倖曲の私なく、上に矜大の色もなかった。断獄で情実を得た割合は前代の十のうち二に過ぎなかったという(それだけ冤罪・誤断が少なかったとの意)。
史論
- 論じて言う。明帝は刑理法令に明るく、日が晩くなるまで朝に坐して幽枉の訴えを必ず明らかにし、内外に恩顧の偏りなく、上に驕り高ぶる様子もなかった。断獄における冤罪は前代の十分の二に過ぎなかったとされ、後世に政治を論じる者は建武・永平の政を範とし、鍾離意・宋均らはしばしば明帝の明察さを評したが、寛容の度量という点では及ばなかったのではないか、とする。
- 賛に言う。顕宗は謹んで大業を承け、常に危惧の心を抱きつつ徳を恭しくし、政において姦を退け勝った。朝儀・文物を整えるとともに陵墓は簡素にし、明堂・辟雍の廃れた典礼を懐かしみ、自ら身を低くして道を遵った。霊台に登り雲気を望み、辟雍に臨んで三老を拝し、その功績を積んで先帝(光武)の徳をさらに輝かせた。