後漢書卷三 章帝紀第三
肅宗孝章皇帝、諱は炟(?–88年)。明帝(顕宗)の第五子で、寛容で儒術を好んだ。永平十八年(75年)明帝の崩御を受けて即位。建初年間には孝廉挙用の制を定め、儒学振興のため白虎観に諸儒を集めて五経の異同を講議させた(白虎通の由来)。刑罰の緩和・民の負担軽減に努め、明帝の苛切に対し寛厚をもって知られ「長者」と評された。章和二年(88年)に崩御、享年三十三。
出自と生い立ち
- 肅宗孝章皇帝、諱は炟。顕宗(明帝)の第五子で、母は賈貴人。永平三年(60年)皇太子に立てられ、寛容で儒術を好み、顕宗に重んじられた。
- 永平十八年(75年)八月壬子、皇帝に即位(年十九)。皇后を尊んで皇太后とした。壬戌、孝明皇帝を顕節陵に葬った。
永平十八年(75年)
- 冬十月丁未、大赦し、民に爵を賜与、鰥寡孤独篤癃には粟を賜った。
- 太尉節鄉侯趙憙を国の元老として太傅に、司空牟融を太尉とし、ともに録尚書事とした(録尚書事の初例)。
- 十一月戊戌、蜀郡太守第五倫が司空となり、征西将軍耿秉を酒泉に屯させ、酒泉太守段彭を遣わし戊己校尉耿恭を救わせた。甲辰晦、日食があり避正殿・寝兵し、五日間聴事せず、有司に上封事を命じた。
- 十二月癸巳、有司が孝明皇帝の徳を称え、廟号を顕宗とし、四時の禘祫を光武の堂で行い間祀は更衣に還すことを奏し、帝はこれを可とした。是歳、牛疫が起こり京師と三州が大旱し、兖・豫・徐州の田租・芻槀を免じ現穀を貧民に賑給した。
建初元年(76年)
- 春正月、農繁期の民の煩労を避ける詔、流人の帰郷を助ける詔を下した。丙寅、牛疫による墾田減少・穀価騰貴を憂い、農桑の勧奨と寛刑・寃獄理理・選挙の是正を命じる詔を下した。酒泉太守段彭が車師を大破し、戊己校尉官を罷めた。
- 二月、武陵澧中蛮が叛いた。三月甲寅、山陽・東平で地震。己巳、災異を憂え、選挙の実を求め鄉挙里選に功労を積ませる詔を下した。夏五月辛酉、初めて孝廉を挙げ、寛博で謀ある者を長・相に補することとした。
- 秋七月辛亥、上林の池籞田を貧民に賦した。八月庚寅、天市に彗星が現れた。九月、永昌哀牢夷が叛いた。冬十月、武陵郡兵が叛蛮を討破した。十一月、阜陵王延が謀反により阜陵侯に貶められた。
建初二年(77年)
- 春三月辛丑、貴戚近親の嫁娶送終の奢侈を戒め、京師から諸夏に及ぶ規範の是正を命じる詔を下した。甲辰、伊吾盧の屯兵を罷め、永昌・越嶲・益州三郡の民夷が哀牢を討平した。
- 夏四月戊子、楚王英・淮陽王延の事件に連座して徙された四百余家を本郡に帰した。癸巳、斉の紈・縠・綸絮など贅沢な織物の官営生産を省く詔を下した。六月、燒當羌が叛き金城太守郝崇を破ったが漢陽に及んだところを馬防が討平した。十二月戊寅、紫宮に彗星が現れた。
建初三年(78年)
- 春正月己酉、明堂に宗祀し霊台に登って雲物を望み、大赦。三月癸巳、貴人竇氏を皇后に立て、爵・粟を賜与した。
- 夏四月己巳、常山の呼沱・石臼河漕を罷めた。馬防が燒當羌を臨洮で破った。閏月、仮司馬班超が姑墨を大破した。冬十二月丁酉、馬防を車騎将軍とした。武陵漊中蛮が叛いた。是歳、零陵が芝草を献じた。
建初四年(79年)
- 春二月庚寅、太尉牟融が薨じた。夏四月戊子、皇子慶を皇太子に立て、爵・粟を賜与した。己丑、鉅鹿王恭を江陵王、汝南王暢を梁王、常山王昞を淮陽王に徙し、皇子伉を千乗王、全を平春王に封じた。
- 五月丙辰、馬防が罷め、甲戌鮑昱が太尉、南陽太守桓虞が司徒となった。六月癸丑、皇太后馬氏が崩じ、秋七月壬戌、明徳皇太后として葬られた。冬、牛が大疫した。
- 十一月壬戌、儒学振興の詔を下し、白虎観に諸儒を集めて五経の異同を講議させ、五官中郎将魏応が問いを承け、侍中淳于恭が奏上して帝自ら制を称えて親臨決断し、白虎議奏(今の白虎通)をまとめさせた。是歳、甘露が泉陵・洮陽二県に降った。
建初五年(80年)
- 春二月庚辰朔、日食。皇太后崩御からの服喪と旱害を憂え、直言極諫の士を挙げる詔を下した。甲申、春秋に麦苗を書く故事を引き、旱害の甚だしさを憂う詔を下した。三月甲寅、刑罰の濫用を戒め、荆・豫の諸郡兵が武陵漊中の叛蛮を討破した。
- 夏五月辛亥、直言の士を求める詔、及び建武詔書を引いて堯が臣を職務によって試した故事を述べる詔を下した。戊辰、太傅趙憙が薨じた。冬、初めて月令により迎気楽を行った。是歳、零陵が芝草を献じ、泉陵の湘水に黄龍八頭が現れた。仮司馬班超が疏勒を撃破した。
建初六年(81年)
- 春二月辛卯、瑯邪王京が薨じ、夏五月辛酉、趙王盱が薨じた。六月丙辰、太尉鮑昱が薨じ、辛未晦、日食。秋七月癸巳、大司農鄧彪が太尉となった。
建初七年(82年)
- 春正月、沛王輔・済南王康・東平王蒼・中山王焉・東海王政・瑯邪王宇が来朝した。夏六月甲寅、皇太子慶を廃して清河王とし、皇子肇を皇太子に立てた。己未、広平王羨を西平王に徙した。
- 秋八月、髙廟で飲酎し光武・明帝を禘祭する詔を下した。九月甲戌、偃師に幸し卷津を渡り河内に至った。行幸の際に民を煩わせぬよう命じる詔を下し、淇園を覧た。己酉、鄴に進んで魏郡の官吏を労饗し、常山・趙国の吏民に元氏の租賦を三年免じた。辛卯、車駕還宮。
- 天下の繋囚を減死・贖罪させる詔を下した。冬十月癸丑、西巡狩し長安に幸して高廟を祠り十一陵に事を行い、蕭何・霍光を祠らせた。槐里・岐山で銅器(罇に似た形)を得、白鹿を獲た。長平・池陽宮を経て高陵に至り、涇水に舟橋を造って還った。十一月、河東の守令掾以下を労賜した。十二月丁亥、車駕還宮。是歳、京師・郡国で螟害。
建初八年(83年)
- 春正月壬辰、東平王蒼が薨じ、三月辛卯、東平憲王として葬られ鑾輅・龍旂を賜った。夏六月、北匈奴の大人が塞に降った。冬十二月甲午、東巡狩し陳留・梁国・淮陽・潁陽に幸した。
- 戊申、車駕還宮。五経の解釈の乱れを憂い、儒者に左氏・穀梁・古文尚書・毛詩を学ばせて微学を扶ける詔を下した。是歳、京師・郡国で螟害。
元和元年(84年)
- 春正月、中山王焉が来朝し、日南徼外の蛮夷が生犀・白雉を献じた。閏月辛丑、済陰王長が薨じた。二月甲戌、王者の八政は食を本とするとし、牛疫以来の穀食不足を憂え、田地を持たぬ者の移住・公田の貸与を許す詔を下した。
- 夏四月巳夘、東平国を分けて蒼の子尚を任城王に封じた。六月辛酉、沛王輔が薨じた。秋七月丁未、拷問の濫用を戒め、楚王英事件以来の過酷な鉆鑽などの拷問を禁じる詔を下した。八月甲子、太尉鄧彪が罷め、大司農鄭弘が太尉となった。癸酉、建初九年を元和元年と改元し、郡国・中都官の繋囚を減罪して辺県に詣らせる詔を下した。
- 丁酉、南巡狩し、道中の県で儲け置きをせぬよう命じる詔を下した。九月、東平王忠が薨じ、辛丑章陵に幸して旧宅・園廟を祠り宗室・故人に賞賜した。冬十月己未、江陵に進み廬江太守に南嶽を祠らせ、長沙・零陵太守に長沙定王・舂陵節侯・鬱林府君を祠らせた。宛に還幸し、十一月己丑車駕還宮。
- 十二月壬子、妖言の大獄に連座して三属に及んだ禁錮を解く詔を下した。
元和二年(85年)
- 春正月乙酉、産子のある者への胎養穀の賜与と復算の令を定めた。三公に対し、農時を害さぬよう罪の穿鑿を控えさせる詔、寛明な吏の模範として襄城令劉方を挙げる詔を下した。
- 二月甲寅、四分暦を始めて用いた。山川鬼神への祭祀を増修する議を命じた。丙辰、東巡狩。己未、鳳凰が肥城に集い、乙丑、定陶で耕籍田を行った。三老・孝悌・力田に帛を賜与し、成陽霊台で唐堯を祠らせた。
- 辛未、太山に幸し岱宗を柴望した際に黄鵠三十が現れた。奉高に進み、壬申、汶上の明堂で五帝を宗祀し、癸酉、二祖四宗(高祖・世祖、文帝・武帝・宣帝・明帝)を告祠して内外群臣が大会した。丙子、二王の後・先聖の裔・東后・宗室・要荒四裔に至るまでの助祭を述べ、大赦の詔を下した。奉高・嬴の田租・芻槀を免じた。戊寅、済南に進み、三月己丑、魯に進んで東海恭王陵を祠り、庚寅孔子を闕里に祠り七十二弟子を祀った。
- 壬辰、東平に進んで憲王陵を祠り、甲午、定陶太后(元帝傅昭儀)恭王陵に使者を遣わした。乙未、東阿から太行山に登り天井関に至った。夏四月乙巳、客星が紫宮に入り、乙夘車駕還宮。庚申、祖禰に仮し高廟を告祠した。
- 五月戊申、鳳凰・黄龍・鸞鳥が七郡に集った祥瑞を述べ、天下の吏に爵、高年鰥寡孤独に帛を賜与し、河南の女子には戸ごとに牛酒を賜り、大酺五日、太学の博士弟子に布を賜った。廬江を六安国、江陵を南郡に戻し、江陵王恭を六安王に徙した。
- 秋七月庚子、春秋の三正・三微の義を引き、律の十一月・十二月報囚の禁を定める詔を下した。九月壬辰、鳳凰・黄龍の見られた亭部の租賦を二年免じ、爵を賜与した。丙申、済南王康・中山王焉を烝祭に召した。冬十一月壬辰、日南至、初めて関梁を閉じた。
元和三年(86年)
- 春正月乙酉、人君は民を父母のように視るべきとし、孤児の養育を律に従い給する詔を下した。丙申、北巡狩し、済南王康・中山王焉・西平王羨・六安王恭・楽成王党・淮陽王昞・任城王尚・沛王定が皆従った。辛丑、懐で耕籍した。
- 二月壬寅、常山・魏郡・清河・鉅鹿・平原郡の太守相に、巡狩の意義と汴渠の功績を称える詔を下した。今肥田が多く未墾であることを憂え、貧民に賦与する詔を下した。乙丑、農時の伐殺を禁じる詔を下した。
- 戊辰、中山に進んで北嶽を祠らせ、長城を出た。癸酉、元氏に還幸し光武・顕宗を県舎の正堂で祠り、翌日明帝生誕の始生堂でも祠り、共に楽を奏した。三月丙子、高邑令に光武の即位壇を祠らせ、元氏の徭役を七年免じた。己夘、趙に進み、庚辰霊寿の房山を祠り、辛夘車駕還宮。
- 夏四月丙寅、太尉鄭弘が免ぜられ、大司農宋由が太尉となった。五月丙子、司空第五倫が罷め、太僕袁安が司空となった。秋八月乙丑、安邑に幸して塩池を観、九月至自安邑。冬十月、北海王基が薨じ、燒當羌が隴西に侵入した。是歳、西域長史班超が疏勒王を撃斬した。
章和元年(87年)
- 春三月、護羌校尉傅育が叛羌を追撃し戦死した。夏四月丙子、郡国・中都官の繋囚を減罪し金城戍に詣らせた。六月戊辰、司徒桓虞が免ぜられ、癸夘袁安が司徒、光禄勲任隗が司空となった。
- 秋七月癸夘、斉王晃が罪により蕪湖侯に貶められた。壬子、淮陽王昞が薨じ、鮮卑が北単于を撃破して斬った。燒當羌が金城に侵入し、護羌校尉劉盱がその渠帥を斬った。
- 壬戌、鳳凰・麒麟・甘露・嘉穀の祥瑞を述べ、建初九年を章和元年と改元する詔を下した。秋令に養老の礼を行い、死罪囚のうち赦令後の連座者を減死とした。八月癸酉、南巡狩し、壬午、昭霊后を小黄園に祠らせた。甲申、任城王尚を召し会し、戊子梁に幸し、己丑沛の高原廟・豊の枌楡社を祠らせ、乙未沛に幸して献王陵を祠り、東海王政を召した。乙未晦、日食。
- 九月庚子、彭城に幸し東海王政・沛王定・任城王尚が従い、辛亥寿春に幸した。壬子、繋囚を減罪して金城戍に詣らせる詔を下した。阜陵侯延を阜陵王に復した。己未、汝陰に幸し、冬十月丙子、車駕還宮。北匈奴の屋蘭儲らが降った。是歳、西域長史班超が莎車を大破し、月氏国が扶抜(獅子に似た瑞獣)を献じた。
- 二年(88年)春正月、済南王康・阜陵王延・中山王焉が来朝し、壬辰、帝は章徳前殿で崩じた。年三十三。遺詔により寝廟を起こさぬこと先帝の法制に倣った。
治世の評
- 論じて言う。魏文帝は明帝を「察察」、章帝を「長者」と評した(華嶠の言)。章帝は人を知り、明帝の苛切に対し寛厚を旨とし、陳寵の慘酷な法の除去や胎養令の制定など、民への慈愛が深く、明徳太后への孝を尽くし、名都を分封して周親を崇め、徭賦を平らかにして民がその恩恵に浴した。忠恕と礼楽を兼ね備え、藩輔がよく調和し諸王が徳を譲り合ったことから「長者」と呼ばれたのも当然であるとする。在位十三年、上奏された符瑞は数百千に及んだという。
史論
- 賛に言う。粛宗は済々として天性穏やかで、その徳は淵のように深かった。左右に文芸を集め律礼を斟酌し(五経の講議・親決を指す)、儒学の館を篤く興し、崔駰らの頌に歌われ、時勢は調い民は富んだ、と。