後漢書卷四 和殤帝紀第四
孝和皇帝、諱は肇(79–105年)。章帝の第四子で、竇皇后に養われた。章和二年(88年)十歳で即位し竇太后が臨朝、のち竇憲を誅殺して親政に転じ、北匈奴討伐と西域再服属を進めた。孝殤皇帝、諱は隆は和帝の少子で、元興元年(105年)生後百余日で即位したが翌年夭折した幼帝。
年表(11件)
和帝の出自と生い立ち
- 孝和皇帝、諱は肇。粛宗(章帝)の第四子で、母は梁貴人。竇皇后に讒言され憂いのうちに卒したため、竇后が肇を己が子として養った。建初七年(82年)皇太子に立てられ、章和二年(88年)二月壬辰、皇帝に即位(年十歳)。皇后を尊んで皇太后とし、太后が臨朝した。
章和二年(88年)
- 三月丁酉、淮陽を陳国、楚郡を彭城国、西平を汝南郡に併せ、六安を廬江郡に戻す改編を行い、遺詔により西平王羨を陳王、六安王恭を彭城王に徙した。癸卯、孝章皇帝を敬陵に葬った。
- 庚戌、皇太后が幼帝を補佐する詔を下し、侍中竇憲(太后の兄)を太傅に薦められていた鄧彪に代わって信任し、鄧彪を太傅・録尚書事に任じ百官が総己して聴くこととした。
- 辛酉、有司が孝章皇帝の徳を称え廟号を粛宗とし武徳の舞を進めることを奏し、帝はこれを可とした。癸亥、陳王羨・彭城王恭・楽成王党・下邳王衍・梁王暢が国に就いた。
- 夏四月丙子、高廟を謁し、丁丑世祖廟を謁した。戊寅、武帝以来の塩鉄専売の由来を述べ、章帝の遺志を継ぎ塩鉄の禁を罷めて民の煮鋳を許す詔を下した。五月、京師が旱し、長楽少府桓郁に禁中で侍講させた。冬十月乙亥、侍中竇憲を車騎将軍とし、北匈奴を伐たせた。安息国が使者を遣わし師子・扶抜を献じた。
永元元年(89年)
- 春三月甲辰、初めて郎官の詔除者に丞尉を占さしめ比秩を真とする令を定めた。夏六月、車騎将軍竇憲が雞鹿塞を出、度遼将軍鄧鴻が棝楊塞を出、南単于が満夷谷を出て北匈奴と稽落山で戦い大破し、和渠北鞮海まで追撃した。竇憲は燕然山に登り石に刻んで功を勒し還った。北単于は弟の右温禺鞮王を遣わし奉奏貢献した。
- 秋七月乙未、会稽山が崩れた。閏月丙子、匈奴討伐の成功を天に告げる詔を下した。九月庚申、車騎将軍竇憲を大将軍とし、中郎将劉尚を車騎将軍とした。冬十月、郡国の徒刑者を軍営で就労させる令を下した。庚子、阜陵王延が薨じた。是歳、郡国九箇所で大水。
永元二年(90年)
- 春正月丁丑、大赦。二月壬午、日食。己亥、西河・上郡属国都尉官を復置した。
- 夏五月庚戌、太山を分けて済北国とし、楽成・涿郡・渤海を分けて河間国とした。丙辰、皇弟寿を済北王、開を河間王、淑を城陽王に封じ、故淮陽王昞の子側を常山王とした。爵位を賜与した。己未、副校尉閻磐を遣わし北匈奴を討たせ伊吾盧の地を取った。
- 丁卯、故斉王晃の子無忌を斉王、北海王睦の子威を北海王とした。車師前後王が子を入侍させ、月氏国が兵を発し西域長史班超を攻めたが、超はこれを撃降した。
- 六月辛卯、中山王焉が薨じた。秋七月乙卯、大将軍竇憲が涼州に出屯した。九月、北匈奴が使者を遣わし称臣した。冬十月、行中郎将班固を南単于への報命に遣わし、南単于は左谷蠡王師子を雞鹿塞から出し河雲北で北匈奴を大破した。
永元三年(91年)
- 春正月甲子、皇帝が元服した。諸侯王・公・将軍・特進・中二千石・列侯・宗室子孫に黄金、将・大夫・郎吏・従官に帛、民に爵・粟・帛を賜与し、大酺五日、繋囚の贖罪を行った。庚辰、京師の民に酺布を賜った。
- 二月、大将軍竇憲が左校尉耿夔を居延塞から出し、金微山で北単于を包囲して大破し、その母閼氏を獲た。夏六月辛卯、太后の母比陽公主を長公主に尊んだ。辛丑、阜陵王种が薨じた。
- 冬十月癸未、長安に行幸し、北狄の破滅・西域諸国の内属を祖宗の功績とする詔を下した。二千石以下・三老官属に賜与を行った。
- 十一月癸卯、高廟を祠り十一陵に事を行い、蕭何・曹参の功臣を顕彰する詔を下し、曹参の後嗣が絶えていたため近親を探させ嗣がせることとした。十二月、西域都護・騎都尉・戊己校尉官を復置した。庚辰、長安から還り、従駕の徒刑者の刑を軽減した。
永元四年(92年)
- 春正月、北匈奴右谷蠡王於除鞬が自立して単于となり塞に降を乞い、大将軍左校尉耿夔が璽綬を授けた。三月癸丑、司徒袁安が薨じ、閏月丁丑、太常丁鴻が司徒となった。
- 夏四月丙辰、大将軍竇憲が京師に還った。六月戊戌朔、日食。丙辰、郡国十三箇所で地震。竇憲が弑逆を謀ったことが発覚し、庚申北宮に幸して竇憲一党を収捕する詔を下した。射声校尉郭璜・その子侍中郭挙・衛尉鄧畳・畳の弟歩兵校尉鄧磊が皆獄死し、謁者僕射を遣わして竇憲の大将軍印綬を収め、憲と弟の篤・景を国に就かせたが、皆自殺した。
- 是夏、旱蝗。秋七月己丑、太尉宋由が竇憲に党したことに坐して自殺した。八月辛亥、司空任隗が薨じ、癸丑大司農尹睦が太尉・録尚書事となった。丁巳、公卿以下佐史に賜与した。冬十月己亥、宗正劉方が司空となった。十二月壬辰、旱蝗の被害による田租・芻槀の免除を郡国に命じる詔を下した。武陵・零陵・澧中蛮が叛き、燒當羌が金城に侵入した。
永元五年(93年)
- 春正月乙亥、明堂で五帝を宗祀し霊台に登って雲物を望み、大赦。戊子、千乗王伉が薨じ、辛卯皇弟万歳を広宗王に封じた。二月戊戌、内外の厩と涼州の諸苑馬を省減し、離宮・果園・上林・広成囿を貧民に開放して租税を免じる詔を下した。
- 丁未、貧民の資産評価の実態を調べさせ豪右の中間搾取を戒める詔を下した。甲寅、太傅鄧彪が薨じ、戊午、隴西で地震。
- 三月戊子、選挙の実を求め、四科(徳行・経明行修・明法律・剛毅多略)による辟召・察挙を厳格化する詔を下した。庚寅、使者を遣わし貧民の実態を調べさせ、三十余郡で倉を開いて賑済した。
- 夏四月壬子、阜陵王种の兄魴を阜陵王に封じた。六月丁酉、郡国三箇所で雹害。秋九月辛酉、広宗王万歳が薨じ嗣なく国を除いた。匈奴単于於除鞬が叛き、中郎将任尚がこれを討滅した。壬午、蔬食の貯蓄を勧める詔を下した。冬十月辛未、太尉尹睦が薨じ、十一月乙丑、太僕張酺が太尉となった。是歳、武陵郡兵が叛蛮を討破し、護羌校尉貫友が燒當羌を討ち、羌は遁走した。南単于安国が叛き骨都侯喜がこれを斬った。
永元六年(94年)
- 春正月、永昌徼外夷が犀牛・大象を献じた。己卯、司徒丁鴻が薨じ、二月乙未、使者を遣わし三河・兖・冀・青州の貧民に稟貸した。許侯馬光が竇憲の党であったことに絡み自殺した。丁未、劉方が司徒、太常張奮が司空となった。
- 三月庚寅、流民の実態調査と租税免除、賤買を防ぐための還帰田租更賦一年免除の詔を下した。丙寅、水旱の頻発を憂え忠良の士を求める詔、直言極諫の士を挙げる詔を下した。夏四月、蜀郡徼外羌が内附した。
- 五月、城陽王淑が薨じ嗣なく国を除いた。六月己酉、伏日を終日閉じる令を初めて定めた。秋七月、京師が旱し、繋囚の刑を半減する詔を下した。丁巳、洛陽寺に幸して冤獄を糾し、洛陽令らを処罰した。西域都護班超が焉耆・尉犁を大破しその王を斬り、以後西域の降服・納質の国は五十余国に及んだ。
- 南単于安国の従弟の子逢侯が叛胡を率いて塞外に亡出した。九月癸丑、光禄勲鄧鴻を行車騎将軍事とし、越騎校尉馮柱を行度遼将軍事、使匈奴中郎将杜崇を遣わし討たせた。冬十一月、護烏桓校尉任尚が烏桓・鮮卑を率いて逢侯を大破し、馮柱がさらにこれを追撃破した。渤海郡を冀州に属させた。武陵漊中蛮が叛き郡兵が討平した。
永元七年(95年)
- 春正月、行車騎将軍鄧鴻・行度遼将軍朱徽・中郎将杜崇が皆獄死した(南単于安国と崇の不和による讒言事件)。夏四月辛亥朔、日食。帝は公卿を引見し得失を問い、大夫・御史・謁者・博士・議郎らに廷中で封事を言わせる詔を下した。
- 郡国の水害と虚飾の報告を戒め、選挙の乱れを糾す長い詔を下した。五月辛卯、千乗国を楽安国と改めた。六月丙寅、沛王定が薨じた。秋七月乙巳、易陽で地裂。九月癸卯、京師で地震。
永元八年(96年)
- 春二月己丑、貴人陰氏を皇后に立て、爵・粟の賜与を行った。夏四月癸亥、楽成王党が薨じ、甲子、并州四郡の貧民に賑貸する詔を下した。五月、陳留で蝗害。南匈奴右温禺犢王が叛き寇した。
- 秋七月、行度遼将軍龎奮・越騎校尉馮柱がこれを追討し右温禺犢王を斬った。車師後王が叛き前王を撃った。八月辛酉、飲酎。郡国・中都官の繋囚を減罪し敦煌戍に詣らせる詔を下した。
- 九月、京師で蝗害。有司の責任に帰す風潮を戒め、天災の責任は自らにあるとする詔を下した。庚子、広陽郡を復置した。冬十月乙丑、北海王威が罪により自殺した。十二月辛亥、陳王羡が薨じ、丁巳、南宮宣室殿が火災に遭った。
永元九年(97年)
- 春正月、永昌徼外蛮夷及び撣国が重訳して貢を奉じた。三月庚辰、隴西で地震。癸巳、済南王康が薨じた。西域長史王林が車師後王を撃斬した。夏四月丁卯、楽成王党の子廵を楽成王に封じた。六月、蝗害と旱害。戊辰、被害地の租税を免除する詔を下した。
- 秋七月、蝗虫が京師を飛び過ぎた。八月、鮮卑が肥如に侵入し、遼東太守祭参が敗れて獄死した。閏月辛巳、皇太后竇氏が崩じ、丙申、章徳皇后として葬られた。燒當羌が隴西に侵入し長吏を殺したが、行征西将軍劉尚・越騎校尉趙世らが討破した。
- 九月庚申、司徒劉方が策免され自殺した。甲子、皇妣梁貴人を追尊して皇太后とした。冬十月乙酉、恭懐梁皇后を西陵に改葬した。十一月癸卯、光禄勲河南の呂蓋が司徒となった。十二月丙寅、司空張奮が罷め、壬申太僕韓稜が司空となった。己丑、若盧獄官を復置した。
永元十年(98年)
- 春三月壬戌、隄防溝渠の維持を怠らぬよう命じる詔を下した。夏五月、京師で大水。秋七月己巳、司空韓稜が薨じ、八月丙子、太常太山の巣堪が司空となった。九月庚戌、廩犠官を復置した。冬十月、五州で水害。十二月、燒當羌の豪迷唐らが種人を率いて内属した。戊寅、梁王暢が薨じた。
永元十一年(99年)
- 春二月、使者を遣わし郡国の被災地を巡行し賑貸した。丙午、郡国・中都官の徒刑・篤癃老小女徒の刑を半減する詔を下した。夏四月丙寅、大赦。己巳、右校尉官を復置した。秋七月辛卯、貴戚近親・商賈の奢侈・規制違反を戒める詔を下した。
永元十二年(100年)
- 春二月、旄牛徼外の白狼・貗薄夷が種人を率いて内属した。被災諸郡の民に種糧を貸与した。三月丙申、旱害を憂い、三公の職責を問う詔を下した。壬子、爵・粟の賜与を行い、太学博士弟子に布を賜った。
- 夏四月、日南象林蛮夷が叛き、郡兵が討破した。閏月、敦煌・張掖・五原の貧民に賑貸した。戊辰、秭帰で山崩れがあった。六月、舞陽で大水があり被災者に粟を賜った。秋七月辛亥朔、日食。九月戊午、太尉張酺が免ぜられ、丙寅大司農張禹が太尉となった。冬十一月、西域の蒙奇・兜勒二国が使者を遣わし内附し、金印紫綬を賜った。是歳、燒當羌が再び叛いた。
永元十三年(101年)
- 春正月丁丑、帝は東観に幸し書林を覧て学術の士を選んだ。二月、任城王尚が薨じた。丙午、張掖・居延・朔方・日南の貧民・孤寡羸弱に賑貸した。秋八月、象林の被災民に賑貸した。己亥、北宮盛饌門閣が火災、護羌校尉周鮪が燒當羌を撃破した。荆州で水害。
- 九月壬子、荆州の水害を憂い、田租・芻槀の半減を命じる詔を下した。冬十一月、安息国が師子・条枝大爵(駝鳥)を献じた。丙辰、幽・并・涼州の辺境の孝廉挙用の枠を戸口に応じ緩和する詔を下した。鮮卑が右北平・漁陽に侵入した。戊辰、司徒呂蓋が罷め、十二月丁丑、光禄勲魯恭が司徒となった。辛卯、巫蛮が叛き南郡に侵入した。
永元十四年(102年)
- 春二月乙卯、東海王政が薨じ、金城塞外の故西海郡を修繕し金城西部都尉を徙してこれを戍らせた。三月戊辰、辟雍に臨んで饗射礼を行い、大赦。夏四月、荆州兵を督して巫蛮を討破した。庚辰、張掖・居延・敦煌・五原・漢陽・会稽の流民に賑貸した。
- 五月丁未、初めて象林将兵長史官を置いた。六月辛卯、皇后陰氏が廃され、后父特進陰綱が自殺した。秋七月甲寅、象林県の更賦・田租・芻槀を二年免じた。壬子、常山王側が薨じた。是秋、三州で水害。冬十月甲申、兖・豫・荆州の水害への田租免除を命じる詔を下した。辛卯、貴人鄧氏を皇后に立てた。丁酉、司空巣堪が罷め、十一月癸卯、大司農徐防が司空となった。是歳、郡国上計による補郎官の制を復した。
永元十五年(103年)
- 春閏月乙未、流民の帰郷支援の詔を下した。二月、潁川・汝南・陳留・江夏・梁国・敦煌の貧民に賑貸した。夏四月甲子晦、日食。五月戊寅、南陽で大風。六月、鰥寡の漁採への課税を二年免じる詔を下した。秋七月丙寅、済南王錯が薨じ、涿郡の故塩鉄官を復置した。
- 九月壬午、南巡狩し、清河王慶・済北王寿・河間王開が従い、沿道の二千石・長吏・三老官属・百歳の民に賜与した。是秋、四州で水害。冬十月戊申、章陵に幸して旧宅を祠り、癸丑園廟を祠って宗室と旧廬で会し、労賜し楽を作った。戊午、雲夢に進み漢水に臨んで還った。十一月甲申、車駕還宮。十二月庚子、瑯邪王宇が薨じた。是歳、初めて夏至による薄刑の裁定を郡国に命じた。
永元十六年(104年)
- 春正月己卯、貧民の農具借用支援を命じる詔を下した。二月己未、兖・豫・徐・冀四州の水害を憂い禁酒を命じた。夏四月、三府掾を四州に分遣し貧民の耕牛雇賃を助けた。五月壬午、趙王商が薨じた。秋七月、旱害。戊午、吏の過酷な取り締まりを疑い、疑わしい囚徒の裁定を控える詔を下した。辛酉、司徒魯恭が免ぜられ、庚午光禄勲張酺が司徒となった。辛巳、天下に田租・芻槀の半減を命じる詔を下した。
- 八月己酉、司徒張酺が薨じ、十月辛卯、司空徐防が司徒、大鴻臚陳寵が司空となった。十一月己丑、緱氏の百岯山に行幸した。北匈奴が使者を遣わし称臣貢献した。十二月、遼東西部都尉官を復置した。
元興元年(105年)
- 春正月戊午、三署郎を禁中に召見し七十五人を選んで謁者・長・相に補した。高句驪が郡界に侵寇した。夏四月庚午、大赦し、改元して元興とし、罪により宗籍を絶たれた宗室を悉く復籍した。五月癸酉、右扶風雍で地裂。秋九月、遼東太守耿夔が貊人を撃破した。
- 冬十二月辛未、帝は章徳前殿で崩じた。年二十七。皇子隆を皇太子に立て、爵・粟の賜与を行った。竇憲誅殺以後、帝は自ら万機を親裁し、災異のたびに公卿に得失を問い、前後の符瑞八十一件について徳の薄きを理由に宣揚を控えさせたという。南海が献じていた龍眼・荔支の駅送で死者が相次いだため、臨武長の汝南の唐羌が上書して陳情し、帝は詔を下してこれを廃させた。
治世の評(和帝紀の末尾に付す)
- 論じて言う。中興以来永元に至るまで、寛政が敷かれつつも民は乱れず、民は殖え辟地は広がった。偏師が塞を出れば漠北は空となり、都護が西を指せば四万里が通訳を通じて服したという。これは道が遠いだけでなく、前世の将の去就に自ずと数があったからである、とする。
殤帝の出自と生い立ち
- 孝殤皇帝、諱は隆。和帝の少子。元興元年(105年)十二月辛未の夜、皇帝に即位(誕生百余日)。皇后を尊んで皇太后とし、太后が臨朝した。北匈奴が使者を遣わし敦煌に称臣貢献した。
延平元年(106年)
- 春正月辛卯、太尉張禹が太傅、司徒徐防が太尉となり参録尚書事、百官が総己して聴くこととした。皇兄勝を平原王に封じた。癸卯、光禄勲梁鮪が司徒となった。三月甲申、孝和皇帝を慎陵に葬り廟号を穆宗とした。丙戌、清河王慶・済北王寿・河間王開・常山王章が国に就いた。
- 夏四月庚申、祀典にない祭祀を罷める詔を下した(鄧太后が淫祀を好まなかったため)。鮮卑が漁陽に侵入し漁陽太守張顕が戦死した。丙寅、虎賁中郎将鄧騭を車騎将軍とし、司空陳寵が薨じた。
- 五月辛卯、皇太后が幼帝の輔佐のため大赦する詔を下し、建武以来の禁錮者を平民に復した。壬辰、河東の垣山が崩れた。六月丁未、太常尹勤が司空となり、郡国三十七箇所で水害。己未、長雨と冷気を憂い、太官・尚方などの奢侈な服御・珍膳を減らす詔を下した。
- 丁卯、後宮の増加と宗室の連座による名族の困窮を憐れみ、掖庭宮人を庶民として解放し、諸官府・郡国・王侯家の奴婢のうち劉姓や老弱の者の名を報告させる詔を下した。
- 秋七月庚寅、刺史・郡国が虚飾の政績報告をして水害を隠蔽する弊を糾す詔を下した。八月辛亥、帝は崩じた。癸丑、崇徳前殿で殯した。年二歳。
史論
- 賛に言う。孝和帝は先例に従い烈しく振る舞い、王の威は自ら中より発し、強慝(竇憲ら)を誅殺した。祥瑞を鎮め徳のある時代を顕した(鄧彪らを用い政を委ねたことを指す)。殤帝の代はあまりに早く終わり、平原王(勝)は持病のため即位できなかった(皇統を負うことができなかった、の意)。