後漢演義第一百回 蜀の地を失い漢の宗廟が絶祀となり、魏の帝位を簒い晋朝が基を開く (失蜀土漢宗絕祀 篡魏祚晉室開基)
曹奐の擁立と蜀漢の内政腐敗
- 司馬昭は成済誅殺後、燕王曹宇の子曹璜(曹奐、15歳)を魏主に迎え入れ、景元と改元。司馬昭は相国・晋公・九錫を再三固辞する体裁を取った。
- 蜀では姜維が北伐を重ねる(既に六度に及ぶ)が民は疲弊し、譙周は『仇国論』でこれを諫めるも姜維は聞き入れなかった。尚書令の陳祗が死んだ後、董厥・諸葛瞻(諸葛亮の子)が政務を担うが、宦官黄皓の専横を抑えられなかった。
- 姜維は黄皓の排除を後主に訴えるが、後主は「一介の小臣に何ができるか」と取り合わず、逆に黄皓に頭を下げさせて済ませる始末。景耀五年、車騎将軍廖化の諫めも聞かず姜維は再出兵するが、夏侯覇の戦死や敗戦を経て撤退。姜維は失脚を恐れ沓中に駐屯し都に戻らなくなる。
- 姜維が魏の侵攻に備え守備強化を上表するも、黄皓は巫女の吉言を口実にこれを握りつぶし、後主も安逸をむさぼり対策を怠った。都郷侯胡烈の妻賀氏をめぐる冤罪処刑の逸話も語られ、蜀の司法・政治の乱れを象徴する。
魏軍の蜀侵攻と漢中陥落
- 司馬昭は鍾会・鄧艾・諸葛緒の三路で蜀に侵攻。鍾会は十余万を率い駱谷・斜谷・子午谷から漢中へ、鄧艾は沓中で姜維を牽制、諸葛緒は姜維の退路を断つ役目を担った。
- 姜維の献策で蜀は陽平関外の辺境防備を撤収し漢中・漢楽二城に兵力を集中していたため、鍾会軍は容易に陽平関に迫った。守将傅僉は寡兵で堅守しようとするが、援軍の蔣舒が裏切って魏軍を関内に引き入れ、傅僉は奮戦の末に自刎して果てた。
- 鍾会は諸葛亮の墓前で禁令(濫殺しない旨)を誓い、雲霧が晴れたという逸話が挿入される。
諸葛瞻の戦死と成都陥落
- 後主は張翼・廖化・董厥を派遣し呉にも援軍を求めるが対応が遅れる。姜維は漢中失陥を知り撤退、諸葛緒の妨害を陽動で振り切って劍閣に廖化・張翼・董厥と合流し、険要を頼みに鍾会軍を長く足止めした。
- 鍾会が攻めあぐねる中、鄧艾は険しい陰平の間道を強行突破(氈で崖を滑り降りる等の難行軍)し、江油の守将馬邈を無血降伏させる。
- 諸葛瞻は涪城から綿竹に退いて防戦するが、黄崇の進言を容れず険要を先に押さえられ、鄧艾軍との激戦の末に戦死。子の諸葛尚も出撃して討ち死にし、父子ともに忠義を貫いた。
- 綿竹陥落の報に成都は動揺。北地王劉諶は徹底抗戦を主張したが、後主は譙周の降伏論を採用。劉諶は昭烈廟(劉備廟)で妻子を殺し自らも自刃して漢への忠を貫いた。後主は自ら縄を打って鄧艾に降伏し、蜀漢は滅亡した(先主の建国から43年、劉禅は在位40年)。
鍾会・鄧艾の対立と最期
- 鄧艾は黄皓を捕らえるが賄賂で助命され、後主を車騎将軍に任じ姜維に降伏を命じさせる。姜維は鍾会に降り厚遇されるが、鄧艾の専断(呉討伐の独断上表など)に司馬昭が不信を抱き、鍾会に鄧艾を監視させる。
- 姜維は鍾会をそそのかし鄧艾との対立を煽り、鍾会は衛瓘と共謀して鄧艾の謀反を告発。鄧艾は捕縛されるが、鍾会は姜維と結んで自らも司馬昭に反旗を翻そうとする。
- 郭太后死去を口実に鍾会は諸将を軟禁し挙兵を宣言するが、監禁されていた胡烈の子胡淵が偽情報(皆殺しにされるとの噂)で兵を扇動し反乱。鍾会は矢に射られ倒れ、姜維も奮戦の末「天命尽きたか」と自刎して果てた。混乱の中で蜀太子劉璿らも殺害され、成都は一時大混乱となる。
- 鄧艾は部下に救出されるが、かつて叱責した部将田続に殺害され、子の鄧忠も共に討たれた。
- 後主劉禅は洛陽へ移され安楽公に封じられる。「此間樂、不思蜀」の逸話(望郷の情を問われても「ここが楽しく蜀を思わない」と答えた話、後に卻正の入れ知恵で涙を装うも見抜かれる話)が語られ、劉禅は晋の泰始七年、65歳で天寿を全うした。
呉の滅亡への序曲と魏晋革命
- 呉主孫休は蜀滅亡に動揺し病没。丞相濮陽興と張布は幼い太子を避け烏程侯孫皓を迎立(改元元興)。孫皓は当初善政を見せたが、まもなく暴虐に転じ、諫言した濮陽興・張布を殺害し、朱后母子も死に追いやった。
- 魏では司馬昭が晋王に進み、子の司馬炎が世子・太子と進む。司馬昭の死後、司馬炎が相国晋王を継ぎ、まもなく祥瑞(巨人出現の噂)を口実に群臣が禅譲を勧進。
- 咸熙二年十二月、司馬炎は南郊で禅譲の儀を受け、国号を晋、泰始と改元。魏主曹奐は陳留王に降封され金墉城へ移され、後に元皇帝と追諡された。廃帝曹芳も邵陵公として没し厲と諡された。魏は五代で滅亡。呉はなお続くが太康元年に晋に滅ぼされる(『晋史演義』にて詳述)。
小子有詩二首曰く「舂陵起義漢重光、後嗣昏庸又致亡、贏得蜀中延一線、誰知宦豎且貽殃」「婦寺原為亂國媒、群雄擾攘亦堪哀、試看兩漢同三國、多少兵民付劫灰」(舂陵の挙兵で一度は漢が中興したが、後嗣の暗愚で再び滅び、蜀で命脈を保っても宦官の禍で終わった。後宮と宦官は乱の元凶であり、両漢から三国まで、いかに多くの兵民が戦火に散ったことか)。
評語
- 姜維の才は諸葛亮に及ばず、連年の北伐は民を疲弊させ失策と言えるが、後主が愚昧で小人を近づけ賢臣を遠ざける以上、北伐せずとも蜀の存続は難しかった。魏の侵攻を察知し守備を上表しながら黄皓に握りつぶされたのは黄皓の咎であり姜維の咎ではない。劍閣で鍾会を防ぎながら諸葛瞻が黄崇の進言を用いず敗死したのも諸葛瞻の咎、後主が北地王の主戦論でなく譙周の降伏論を採ったのも後主の咎であって、いずれも姜維の責ではない。大勢が決した後も鍾会に偽降して蜀の再興を図り、失敗して一死をもって国に報いた姜維の忠節は極まっている。
- 司馬氏の魏簒奪は天道循環の理であり、曹操父子が漢に対して行ったことの報いとして司馬昭が魏に対して同じことを行ったにすぎない。魏を簒ったのは晋だが、その根は魏自身が蒔いたものである。晋の滅亡の経緯は『晋史』に譲る。