後漢演義第九十九回 悪事の限りを尽くし孫綝が誅殺され、忠貞を尽くし王経が節に死す (滿惡貫孫綝伏誅 竭忠貞王經死節)

諸葛誕の挙兵準備

  • 揚州の諸葛誕は毋丘儉討伐に功を挙げ征東大将軍に進むが、先に粛清された王凌・毋丘儉と同じ運命を恐れ、罪人を赦し死士を養い民心を集めるなど自衛策を進めた。
  • 司馬昭は長史賈充を使者として送り探りを入れさせる。賈充が禅譲の是非を持ちかけると諸葛誕は激怒して忠節を誓い、賈充はこれを「放置すれば害が大きい、召し出すべき」と司馬昭に進言。
  • 諸葛誕は司空への召還と兵権の揚州刺史楽綝への移譲命令に反発し、楽綝を殺害して挙兵。子の諸葛靚を人質として呉に送り援軍を求めた。

呉の孫峻死去と孫綝の専横

  • 呉では孫峻が暴政の末、心痛(諸葛恪の祟りと自称)により若くして急死し、従弟の孫綝が実権を継承。驃騎将軍呂拠は滕胤を丞相に推す動きを見せたが、孫綝はこれを謀反として滕胤・呂拠を族滅した。
  • 呉主孫亮は太平と改元。孫綝は大将軍・永寧侯となるが専横がひどく、従兄孫憲の謀殺計画も露見して憲は自殺に追い込まれる。
  • 諸葛誕からの援軍要請に応じ、孫綝は全端・全懌・唐資らと降将文欽父子に兵三万を与え寿春救援に向かわせた。

寿春の攻防と諸葛誕の滅亡

  • 司馬昭は魏主曹髦と郭太后を伴い親征、二十六万の大軍で寿春を包囲。呉の朱異らの援軍も魏軍に撃退され、輜重を焼かれるなど再三失敗。孫綝は朱異を無能を責めて斬殺した。
  • 司馬昭は投降した全懌の甥全煒の名を騙った偽書で「孫綝が咎めている」と誤信させ、全懌・全端を降伏に導いた。寿春城内は孤立を深める。
  • 兵糧窮乏の中、文欽と諸葛誕は対立し、諸葛誕が文欽を斬殺。子の文鴦・文虎は魏に投降し、司馬昭はあえて厚遇して降伏を誘う策に用いた。守兵は次々と投降し、ついに寿春は陥落。諸葛誕は逃走中に討ち取られ、一族三族皆殺しとなった。降伏兵は坑殺されず各地に分置され、司馬昭は寛大な処置で人心を得た。

呉の孫綝誅殺(孫休の即位)

  • 呉主孫亮は成長し孫綝の専権に不満を募らせるが、密議が漏れて逆に孫綝に先手を取られ、全尚・劉承らは殺害・処刑され、孫亮は廃されて会稽王に落とされる。全后の兄全紀は父の失態を恥じて自刎。
  • 孫綝は瑯琊王孫休を迎立(改元永安)。孫休は表面上孫綝を厚遇しつつ内心警戒し、老将丁奉・左将軍張布と謀り、臘会の宴で孫綝を捕縛・処刑。一族も皆誅殺され、孫峻の墓も暴かれた。

王経の忠死と司馬昭による曹髦弑逆

  • 一方、魏の郡吏丹陽太守李衡は妻習氏の諫めで魏への逃亡を思いとどまり自首、赦免された逸話が挿入される。
  • 魏主曹髦は司馬昭の専横に耐えかね「潜龍詩」を作り不満を表す。司馬昭はこれに気づき廃立を画策。曹髦は王沈・王経・王業に司馬昭討伐を諮るが、王経は無謀と諫止するも聞き入れられず。曹髦は宮中の宿衛や僮僕数百人を率いて自ら剣を執り出撃。
  • 司馬伷(司馬昭の弟)に阻まれるも突破し、南闕で賈充の軍と衝突。賈充の部下成済が「殺すべきか縛るべきか」と問い、賈充は「殺せ」と即答。成済は曹髦を刺殺した。
  • 司馬昭は動揺を装い、太傅司馬孚だけが真に哀哭した。会議で陳泰は「賈充を斬るしかない」と迫ったが司馬昭はさらに重い処罰を求め、結局は無関係な王経一族を処刑し、実行犯の成済を口封じのため誅殺して事を収めた。処刑された王経の母は「死に場所を得られたことを悔いない」と気丈に語った。

小子有詩曰く「王經報主甘從死、成濟弒君亦受誅、等是身家遭絕滅、流芳遺臭兩懸殊」(王経は主に殉じて死を甘受し、成済は君を弑して誅を受けた。ともに一族を滅ぼされながら、名を残すか汚名を残すかは天と地ほど違う)。

評語

  • 孫亮が孫綝の専横を我慢し孫休のようにふるまえば誅殺も可能だったはずだが、器量が足りず失敗した。孫綝は兄孫峻ほどの悪運もなく、驕り高ぶって衆怨を買い、あっさり誅殺された。
  • 魏主曹髦の無謀な決起は孫亮と似ているが、孫亮すら孫綝を討てなかったのだから曹髦が司馬昭を討てるはずもなく、南闕の弑逆は自ら招いた結果と言える。ただ王経は諫言し抗弁もして忠死し、その母もまた笑って刑に就いた。虎の威を借りて主君を弑した成済と比べれば、その差は天地ほど大きい。