前作『前漢演義』の反省と後漢を書く理由
- 前年に著した『前漢演義』では前漢二百十年の事跡を要約し、特に女寵・外戚による禍いを詳しく記した。それは後世への戒めのためであった。
- 引き続き後漢(および蜀漢)の事跡を書き継ぐにあたり考えると、後漢の歴代も前漢とほぼ同様の構図をたどり、その滅亡の端緒もやはり女寵に始まり外戚によって形づくられている。
- 世間では後漢滅亡の直接の下手人は宦官と地方軍閥(方鎮)であり、女寵・外戚とは無関係だと見る向きもある。しかし木が朽ちれば虫が生じ、塀に隙間があれば蟻が入るように、先に女寵・外戚の弄びがあってこそ、後に宦官・軍閥の争乱が生じたのだと説く。陽(君主権)が弱まり陰(後宮・外戚)が強まる過程は徐々に進んだものであり、早くに見分けられなかったことに由来すると論じる。
范曄『後漢書』に見る先例
- 范曄(蔚宗)の『後漢書』後妃列伝は、女主が権を握り、政事を父兄に委ね、ついに王朝が衰退に至ったことを繰り返し嘆いている。
- 外戚伝・党錮伝などでも関連する事柄を併記し、さらに新たに「宦者伝」を立て、鄧太后が女主として政を執り、閨閫の中から命令を下すうちに宦官に国政を委ねざるを得なくなったこと、曹騰が梁冀に取り入ったことが結局は暗愚な帝を擁立させ、魏の武帝(曹操)がそれに乗じて漢の帝位を奪う道筋を開いたことを記す。
- 鄧太后は女寵、梁冀は外戚、曹騰は宦官、曹操は方鎮の代表であり、この一例をもって百を推し量れば、女寵・外戚から宦官・軍閥の禍へと至る筋道は明白だと述べる。
- 蜀漢の劉備(昭烈)が偏安の一線を保った後も、後主の代に黄皓という宦官に国事を誤られたことに触れ、諸葛亮が桓帝・霊帝の宦官政治を痛恨していたはずが、後主の代に再び同じ禍が現れたことを慨嘆する。
既存の通俗小説への批判
- 史書は浩瀚で読み通すのは難しく、編年体の書も様々あるが、いずれも読者を圧倒してしまい、結局は世に広く読まれている『東西漢演義』や『三国志演義』のような通俗小説にはかなわないと述べる。
- しかし『東西漢演義』は叙述が粗略で臆造(作り話)が多く、見識ある者からは軽んじられるべきものだとする。
- 羅貫中の『三国志演義』は人口に膾炙し、批評家の評点も加わって価値を高めているが、陳寿の『三国志』と照らし合わせると、その半ば以上は潤色・脚色であると指摘する。陳寿も晋の臣であるため蜀・魏の記述に多少の曲筆はあるが、こじつけて史実を歪めるようなことはしていない。一方、羅貫中は巧みな脚色で人の耳目を喜ばせる代わりに、偽りを真実であるかのように広め、伝わるほどに誤りが増しており、読者を誤らせる罪も小さくないと批判する。
本編の編纂方針
- 本作は『前漢演義』の体裁を継承し、新の王莽による漢の簒奪に始まり、司馬氏が魏に取って代わるところで終える。東漢・蜀漢の二百数十年を扱う。
- 事実は事実として記し、文章はいたずらに深遠を求めず、正史と稗史(俗伝)を一つに合わせて、雅俗いずれの読者にも適うようにする。
- とりわけ興亡の大きな鍵となる女寵・外戚が宦官の禍に発展し、さらに兵乱へと迫っていく経緯には特に意を用いたと述べる。
- 「文章はいい加減に作らない」という先人の言葉を引き、自分がその言葉に十分応えられているとは思わないが、荒唐無稽な付会で世の道理と無関係な作り話とは、程度の差があるはずだと述べ、天下の識者に正してもらいたいと結ぶ。
- 末尾に「中華民国十五年秋節、古越の蔡東帆記す」と署名する。