後漢演義第九十三回 街亭を失い涙を揮って馬謖を斬り、漢中へ戻り計を授けて王双を討つ (失街亭揮淚斬馬謖 返漢中授計戮王雙)
孟達の失敗と姜維の帰順
諸葛亮の軍は漢中を出て石馬城に駐屯。曹叡は即位して太和と改元、司馬懿を驃騎大将軍として荊豫方面に、曹真を関右に配す。魏に降っていた新城太守孟達は、旧知の桓階・夏侯尚が没して不安を覚え、諸葛亮の勧誘に応じて再び蜀へ通じようとするが、魏興太守申儀の密告で発覚。司馬懿は表向き孟達をなだめつつ密かに進軍し、諸葛亮の警告も間に合わず孟達は八日で攻め落とされ敗死する。諸葛亮は南鄭で魏延を丞相司馬・前軍統率とし、魏延は子午谷を奇襲する策を献じるが、諸葛亮は危険すぎるとして退ける(後の伏線)。趙雲・鄧芝を疑兵として箕谷に配し、自らは祁山へ進撃。南安・天水・安定の三郡が降り、天水郡の姜維は太守馬遵に疑われ帰る場所を失い蜀に投降、諸葛亮に才を認められ倉曹掾・奉義将軍に取り立てられる。
街亭の敗戦
曹叡は五万の兵を張郃に授けて西進させ、司馬懿とも合流させる。諸葛亮は要衝の街亭を守る大将として、自薦した参軍馬謖を起用し、王平を副将に付けて厳しく城柵での守りを命じる。しかし馬謖は山上に布陣する強気の策を取り、王平の再三の諫言を退ける。司馬懿・張郃軍は山を包囲して水源を断ち、蜀軍は自壊して降兵が続出。馬謖は敗走し、魏延の援護でかろうじて脱出。王平は寡兵ながら鼓を鳴らして偽の反攻の構えを見せ、全軍を無事に撤収させた。
空城の計と馬謖の処刑
司馬懿は祁山の諸葛亮本営に迫るが、諸葛亮は城門を開き自ら琴を弾じて動じぬ様を見せる「空城の計」で司馬懿を退かせ、退路で輜重を奪わせる(地の文はこの逸話が正史では小注扱いで確証が薄いことに触れつつ、故老の伝承として敢えて残すと注記)。漢中に帰還した馬謖は罪を認め、諸葛亮は「丞相として法を曲げれば軍を治められない」と涙ながらに馬謖を斬り、家族を厚遇して弔った。趙雲・鄧芝も箕谷撤退の責を負い、諸葛亮は自ら右将軍に降格を願い出て許される。蔣琬との対話で「法を曲げず反省し再起を図る」との決意を語る。
陳倉攻めと後出師表
呉の周魴の偽降計で魏の曹休が大敗し病没、司馬懿・賈逵が救援に回る混乱の中、諸葛亮は再び北伐を志すが、名将趙雲が病没し悲嘆する。諸葛亮は「後出師表」を上奏し、蜀の劣勢を認めつつも「坐して滅びを待つより討つべし」との覚悟を述べ、後主の許可を得て陳倉を包囲するが、守将郝昭の堅守で落とせず、食糧が尽きて撤退。退却の途上、魏延が伏兵で追撃の将軍王雙を討ち取る。翌年、陳式が武都・陰平の二郡を攻略し成功する。呉が皇帝を称し蜀と平魏後の領土分割を約する盟を結び、諸葛亮は北伐再開の準備を進める中、建興八年、魏の曹真・司馬懿の両軍が漢中侵攻の構えを見せたとの報が届く。
評語
知人の難しさを説き、諸葛亮ほどの慧眼をもってしても馬謖の起用を誤ったことを指摘する。馬謖は南蛮平定の献策など見識があったが、街亭では諸葛亮・王平の意見に背き自ら要害を失った。かつて劉備が「馬謖は言葉が実質を超える」と評していたことを踏まえ、この失敗は天命だけでなく諸葛亮の誤用にも責があるとする。空城の計は史実として確証が薄いとしつつ、あったとすれば諸葛亮も危うかったろうと評す。陳倉では郝昭の堅守に阻まれたが撤退時に王雙を討ち取った点を評価し、魏には人材が多いのに対し蜀は諸葛亮一人に頼るほかなく、鞠躬尽力の北伐は名分こそ正しいが将佐の不足が課題であったと結ぶ。