後漢演義第九十二回 西蜀の立場を尊び東呉の使者を論破し、南蛮を平定し北伐の軍を興す (尊西蜀難倒東吳使 平南蠻表興北伐師)

劉備の遺命と後主の即位

劉備は臨終に際し諸葛亮へ「君の才は曹丕の十倍、嗣子が補佐に値せねば君自ら取って代わってよい」と告げる。諸葛亮は涙して忠誠を誓う。李厳に遺詔を代筆させ、劉永・劉理の二子には丞相を父として仕えるよう命じ、趙雲にも輔国を託して六十三歳で崩じた。諸葛亮が喪儀を主導し、李厳を中都護として永安に残し、自ら百官を率いて棺を成都へ送る。太子劉禅(十七歳)が即位して建興と改元、後主となる。劉備は昭烈皇帝と諡され恵陵に葬られる。秦宓は赦免され益州別駕に抜擢される。諸葛亮は武郷侯に封ぜられ益州牧を兼ね、政務を一手に担う。

呉との修好・鄧芝と秦宓の弁舌

益州の豪族雍闓が太守を殺して呉に呼応し叛いたが、諸葛亮は服喪中の出兵を避け、まず呉との和睦を優先する。広漢太守鄧芝が使者に立ち、孫権に「呉魏どちらと和すか」と直談判し、蜀呉が唇歯の関係にあることを説いて盟約を取り付ける。翌年、呉の張温が答礼に成都を訪れ、諸葛亮らが応対する中、益州の学者秦宓が天に頭・耳・足・姓があるかを問われ、詩経を引用して機知に富んだ受け答えで張温を言い負かす。鄧芝も再度呉へ赴き、孫権と「天下統一まで二国鼎立を続ける」との認識を確認し、呉蜀の交流は以後も続いた。

曹丕の伐呉失敗と魏の後継

曹丕は呉蜀連携を警戒し出兵を図るが、辛毗は十年の国力涵養を説いて諫める。丕は聞かず司馬懿を許昌に留め、自らは南征に向かう。曹丕が弟の曹彰・曹植を早くから領国へ追いやった経緯、甄氏(元袁熙の妻)を妻としながら郭氏を寵愛して甄氏を賜死させた顛末、曹叡(甄氏の子)が郭氏に育てられ、狩りの折に母鹿を射た父に「母鹿を射たのに子鹿まで射るのですか」と諫めて感銘を与えた逸話が語られる。曹丕は龍舟で広陵に至るが、呉将徐盛の疑城の計(葦人形と旗幟で偽の城壁を作った)に驚き、暴風にも遭って空しく撤退する。

諸葛亮の南征と七縦七擒

諸葛亮は呉魏の抗争の隙に南征を決断。参軍に抜擢された馬謖に相談すると「南蛮は攻城より攻心を上策とすべし」と献策され、諸葛亮も同意する。越雟から進軍し雍闓・高定を討ち、馬忠が牂牁の朱褒を討伐。残る蛮酋孟獲を服従させるため、諸葛亮は敢えて七度捕らえては七度放ち、ついに孟獲は心服して二度と叛かないと誓う(地の文は『演義』が描く朵思大王・木鹿大王・祝融夫人などの奇譚を史実無根の作り話と断じる)。諸葛亮は官吏を置かず現地に自治を委ね、南方は安定した。行軍散(暑気あたりの薬)を配って将兵の被害を防いだ逸話も添えられる。

出師の表

曹丕が病没し、子の曹叡(明帝)が即位。呉が喪に乗じて江夏・襄陽を攻めるが司馬懿・文聘に退けられる。諸葛亮は二年の休息の後、李厳・陳到・向寵ら人事を固めて北伐を決意し、「出師表」を上奏する。表では先帝の恩義に報いるため中原回復を期す決意、宮中の人材(郭攸之・費禕・董允・向寵)への信任、賢臣を親しみ小人を遠ざけよとの戒めを述べる。建興五年三月、後主の許しを得て諸葛亮は漢中へ進軍した。

評語

諸葛亮が呉と和したのは時勢に迫られたゆえで、先主の恥を忘れたわけではないとする。鄧芝・秦宓の起用は人材の適材適所を示す妙算であり、孟獲の七縦七擒も蛮心を服さねば北伐に専念できぬための策であったとする。ただし『演義』のような神業めいた誇張は人を惑わすものであり、こうした荒唐無稽さが後世の義和団の乱のような迷信を助長したと批判、羅氏の作風を厳しく戒める。「出師表」については内外への配慮が行き届いた文章であり、諸葛亮の忠義がよく表れていると評す。