後漢演義第九十四回 木門道で張郃が命を落とし、五丈原で諸葛亮が世を去る (木門道張郃斃命 五丈原諸葛歸天)

曹真の遠征失敗と蜀の内政

南安・天水・安定を回復した功に驕る曹真は斜谷から蜀を攻めることを曹叡に願い出るが、司空陳群は輸送の困難を理由に反対する。曹真は子午谷進軍を強行するが、秋の長雨で行軍が滞り、群臣の諫言で召還される。司馬懿も天候を理由に動かない。諸葛亮は魏延を羌方面へ派遣し郭淮を陽渓で破る。長史張裔の死去に伴い蔣琬が長史に昇進、兵站を支える人材として重用される。

祁山再攻と司馬懿との対陣

建興九年、諸葛亮は再び祁山を攻める。曹真の病没後、司馬懿が軍権を握り西へ向かう。諸葛亮は上邽で費曜・戴陵の守備隊を撃破しつつ、麦を刈って兵糧とする。司馬懿は険を頼み持久戦に徹し、部将張郃の決戦進言も退ける。しかし血気にはやる部将賈栩・魏平らに促され、ついに司馬懿は出撃を決断。諸葛亮は連弩(一度に十矢を放つ弓)と伏兵で司馬懿軍を撃破し、甲首三千級を得る大勝を収める。司馬懿は以後守りに徹する。

撤退と木門道の伏兵

食糧が尽きかけたところへ、督糧の李平(李厳の改名)から誤った撤退要請が届き、諸葛亮は帰還を決断する。将兵は名残を惜しみつつ、退却の殿を務める構えを見せる。諸葛亮は木門道に伏兵を仕込み、司馬懿に「帰る敵は追うな」と諫めた張郃を、司馬懿があえて挑発して追撃させ、伏兵の矢で張郃を討ち取ることに成功する。李平は自らの失態を部下狐忠・成藩に押し付けようとするが露見し、庶人に落とされ梓潼に流される(子の李豊は処罰されず)。諸葛亮は八陣図を作り、木牛流馬を考案するなど三年後の再挙に備える。

魏の宮廷秘史

曹叡は父の遺志を継ぎ同族を軽んじる。曹彰は早くに没し、曹植は雍丘・浚儀へ転封される不遇の身のまま、亡母甄氏を偲ぶ賦(後の「洛神賦」)を残す。太皇太后卞氏の死をきっかけに曹植は郭后が甄氏を死に追いやった真相を曹叡に明かし、曹叡は生母を改葬して陳王曹植を厚遇するが登用はしない。曹叡は毛皇后を寵愛の対象から外し郭夫人に溺れ、娘の早世を悼んで甄氏の孫を養子にする奇行に及ぶ。郭太后への詰問がもとで太后は憂憤のうちに死去する。山陽公(旧献帝)の死去に際しては天子の礼で葬儀を行い、後漢の歴代(光武帝から献帝まで八世十二主、二百九十六年)が総括される。

蜀呉の同時侵攻と五丈原

諸葛亮と孫権が東西から呼応して魏を攻める。曹叡自ら出陣して合肥を守る満寵を支援し、呉軍は撤退する。陸遜は情報漏洩を悟りながら平然と対処し、諸葛瑾の水軍と連携して安全に撤退する手腕を見せる。司馬懿は五丈原に陣取った諸葛亮に対し守りに徹し、諸葛亮が贈った女物の衣装による挑発にも動じず、逆に使者から「諸葛亮は食が細く政務に忙殺されている」と聞き「長くは持つまい」と見抜く。魏の朝廷は司馬懿に対しあくまで守勢を命じ、姜維の懸念どおり司馬懿は決戦を避け続ける。

諸葛亮の死

対陣は三月以上続き、諸葛亮は病に倒れる。後主の使者李福との対話で、蔣琬・費禕の順で後継を託す意向を示す。大星が陣営に落ちるのを見て血を吐き、楊儀・姜維に後事を託し、建興十二年八月二十三日、五十四歳で没する。

評語

木門道での張郃の死は馬謖の恨みを晴らすものであり、街亭の失策は実質的に張郃の功であったと指摘する。呉との東西呼応も呉軍が功なく退いたため、蜀は司馬懿と対陣を続けるうちに諸葛亮を喪うこととなり、これは魏を助ける天意というより、むしろ晋の台頭を陰で助けた天意ではないかと評す。『演義』が描く「六出祁山」は誇張が多く、実際には六度漢中を出たに過ぎないとし、史実を尊重すべきだと結ぶ。