後漢演義第九十一回 陸伯言は計を定め連営を焼き払い、劉先主は危篤に臨み後事を託す (陸伯言定計毀連營 劉先主臨危傳顧命)

出師をめぐる諫言

劉備は呉討伐の準備を進める。翊軍将軍趙雲は、まず魏を討つべきだと諫めるが聞き入れられず、諸葛亮ら群臣の連名の諫めにもわずかに心を動かすのみだった。そこへ車騎将軍となった張飛が駆け込み、桃園の誓いを持ち出して関羽の仇討ちを迫る。劉備は魏討伐を先とする意見に押されて遅れていた事情を説明し、張飛を閬州へ帰して兵を集めさせ、酒に酔って部下を鞭打つ悪癖を厳しく戒めた。劉備は出師を決意し、丞相諸葛亮に太子劉禅の補佐と成都の留守を託し、自ら東征の軍を率いる。黄忠は既に病没しており(『演義』が黄忠の戦死を語るのは史実と異なる、と地の文は指摘する)、馬超は涼州鎮守にとどまる。趙雲は東征に反対した経緯から先鋒を外され、糧秣輸送の後詰めとされた。益州従事の秦宓は出師の不吉を諫めて投獄される。

張飛の死

劉備は秭帰へ向かう途中、閬州からの上表を受け取るが、差出人は張飛配下の都督で、張飛が部下の張達・范彊に殺され、首級を携えて呉へ逃げたことを知らされる。劉備は号泣し、張飛に桓侯の諡を追贈、早世した長子張苞に代わり次子張紹に爵位を継がせた(張苞早世は史実で、『演義』の記述は根拠がないと地の文は付言する)。

呉の和平工作と魏の対応

呉の諸葛瑾が和睦を求める書状を送るが、劉備は激怒し使者斬殺を命じるも群臣に諫められ赦す。孫権は諸葛瑾を信頼し裏切りを疑わなかったことが語られる。張達・范彊が張飛の首を献じるが、孫権は和議が成らぬと悟り、李異・劉阿らに四万の兵をつけて秭帰の防備に当てる一方、魏に臣従を申し出て于禁らを送還する。魏の曹丕はこれを受け入れ王に封じるが、侍中劉曄は「呉の降伏に乗じて江東を攻めるべき」と進言、丕は容れず呉に恩を売る道を選ぶ。太常邢貞が呉に赴き孫権を呉王に冊封する使者となるが、車を降りぬ横柄な態度に張昭が抗議し、徐盛も屈辱に涙する。孫権の使者趙咨は曹丕の問いに機知に富んだ受け答えで孫権の器量を誉め、丕に賞賛される。丕は呉を助けず傍観する構えを取った。

猇亭の攻防、陸遜の起用

呉将李異・劉阿らは秭帰で呉班・馮習ら蜀軍に敗れる。孫権は陸遜を大都督に抜擢し、朱然・潘璋・韓当・徐盛ら諸将五万を率いさせ、全権を委ねる。孫権の族子孫桓は先鋒を志願し彝陵へ進むが、蜀将呉班の誘いに乗って伏兵に囲まれ、朱然の救援でようやく脱出する。陸遜は孫桓救援も蜀軍攻撃も拒み、「彝陵は堅固で孫桓は将兵の信望も厚いから持久で足りる」と諸将の焦りをいなす。韓当・徐盛らは陸遜を「書生」と侮り不満を募らせる。

猇亭の対陣と陸遜の火攻め

劉備は秭帰から猇亭に進み、陸遜の五万の軍と対峙する。従事黄権は水軍の危うさと持久策を進言するが容れられず、黄権は江北で魏に備える役に回される。陸遜は蜀軍の鋭気が盛んな間は戦わず、諸将の再三の抗議にも「劉備は天下の梟雄、侮れぬ敵」と一喝して軍紀を締める。蜀軍は数十里にわたり連営を布くが、陸遜は伏兵を見抜いて出撃を控え、半年近く対陣を続ける。盛夏、蜀軍が林間に陣を移したのを見て陸遜は総攻撃を決意、火攻めを発動する。馮習・張南の陣が焼き破られ、蜀の全軍は総崩れとなる。傅彤が殿軍を務めて力戦の末に討ち死にし、劉備は焼いた鎧を捨てて追撃を防ぎつつ潰走、趙雲の救援で白帝城に逃げ込む。従事程畿は水軍立て直しに失敗し自刎、蛮王沙摩阿も戦死、黄権は退路を断たれ魏へ降った。

魏の三方侵攻と失敗

曹丕は蜀の連営が敗因になると予見し、呉の勝利後には人質を要求するが拒まれ、曹休・曹仁・曹真の三軍で呉を攻める。陸遜は追撃をやめて班師し、孫桓との間で調度の巧みさを語り合う。呉は呂範・諸葛瑾・朱桓らを配して魏の三路を防ぎ、曹休は洞口で敗れ、曹仁も敗退、朱然が夏侯尚を破って曹真も孤立し、劉曄の諫めを聞かなかったことを悔いた曹丕は全軍を撤収させる。

劉備の最期と遺詔の予兆

白帝城に退いた劉備は再起を図るが将兵の大半を失い成軍もままならない。孫夫人が劉備死亡の誤報を受けて長江に身を投げて殉じたと伝わり、劉備は心を痛めて病に伏す。白帝城を永安と改め、呉との和議に応じつつも鬱々として床に就いたまま半年、章武三年二月に諸葛亮・李厳らを永安宮に呼び寄せる。劉備は諸葛亮に「丞相の言を用いなかったことを悔いる」と涙し、成都令馬謖について「言葉が実質を超えており重用してはならぬ」と釘を刺す。病はさらに重くなり、遺命を託す場面へと続く。

評語

曹操が赤壁で驕りにより敗れたように、劉備も猇亭で驕りにより敗れたとする。献帝簒奪の仇は魏、関羽の仇は呉であり、軽重を論じれば魏を先にすべきだったと趙雲の諫言を正論と評す。連営七百里で持久したのは無謀であり、天命というより人事の誤りだと指摘。また、諸葛亮が成都に留まり関羽・劉備いずれの危難も救えなかったことを陳寿は将略の欠如と評したが、これも一概に酷評とは言えないとしつつ、著者自身もなお疑問を残すとしている。