後漢演義第七十回 元凶が罪に伏し変が部曲に起こり、財が多いために禍を招き一家に及ぶ (元惡伏辜變生部曲 多財取禍殃及全家)
董卓誅殺
- 初平三年、病から回復した献帝が未央殿に出御する日、董卓は入朝の途上、王允の計に沿って動いた呂布と、同郷の李肅らの手引きにより北掖門で待ち伏せされた。
- 李肅が戟で董卓を突き、続いて呂布が「有詔討賊」と叫んで董卓の喉を刺し、李肅がとどめを刺してその首級を取った。士孫瑞が用意していた詔書が読み上げられ、周囲の兵士・官民はこぞって万歳を叫んで喜んだ。
- 呂布は董卓の邸に入り、董氏一族の姫妾を皆殺しにし、貂蟬だけを連れ帰った。皇甫嵩は郿塢を攻め落とし、董旻・董璜、董卓の母を含む一族を皆殺しにして財宝を没収した。董卓の遺骸は市中に晒され、後に袁氏の一族によって焼かれ灰にされた。
王允の失政
- 王允は董卓の残党を粛清する一方、董卓の死を悼んだ蔡邕を投獄し、太尉馬日磾の助命嘆願も聞き入れず、蔡邕を獄死させた。
- 呂布は牛輔討伐を命じた李肅の失敗を怒って処刑し、董卓の女婿牛輔は逃亡中に家臣胡赤児に殺された。
- 呂布は李傕・郭汜ら董卓残党の粛清や董卓の財産の分配を王允に進言したが、いずれも退けられ、王允と呂布の間に隙が生じた。王允は李傕らの処遇を決めかね、赦免も討伐も中途半端なまま放置した。
李傕・郭汜の反乱
- 涼州出身の李傕・郭汜らは「涼州人皆殺し」の噂におびえ、賈詡の進言で長安への逆襲を決意。十余万の兵を集めて長安を攻め、八日の攻防の末に城内で内応が起きて陥落した。
- 呂布は奮戦の末、董卓の首を馬に掛けて武関から脱出、袁術のもとへ逃れた。王允は献帝に別れの言葉を残して城を出ず、李傕・郭汜に殺された。妻子・一族も多くが処刑された。
- 太尉馬日磾らが李傕・郭汜を懐柔し、傕は車騎将軍、汜は後将軍などに任じられ、朝政を掌握した。左馮翊宋翼・右扶風王弘も粛清された。
曹操の台頭と父の横死
- 兗州刺史劉岱の戦死後、曹操が陳宮の計で兗州刺史となり、黄巾の大軍を撃破して「青州兵」三十万を編成した。
- 太傅馬日磾・太僕趙岐による関東への和平使節派遣により、袁紹と公孫瓚が一時停戦した。
- 曹操は父曹嵩を瑯琊から迎えようとしたが、徐州牧陶謙配下の護送隊長張闓が財宝欲しさに曹嵩一家を皆殺しにした。
- 激怒した曹操は喪服をまとって復讐を誓い、徐州の陶謙を討つべく全軍を率いて出撃した。
評語
- 王允が董卓を誅した功績を認めつつも、その後の慢心と度量の狭さが李傕・郭汜の乱を招き、董卓在世時にも増す大禍を天下にもたらしたと批判する。また曹嵩の横死についても、財を蓄えたことがその一因であり、かつて曹操自身が呂伯奢一家を無実の罪で殺した報いだとも指摘する。