後漢演義第71回 濮陽を攻めた曹操が敗れて退き、幽州を失った劉虞が捕らわれ殺される (攻濮陽曹操敗還 失幽州劉虞縶戮)

曹操の父の仇討ち

  • 曹操は父の仇討ちと称し徐州へ進軍。陶謙が平定していた徐州は曹操軍に蹂躙され、十余城が落ち、民衆が多数殺され泗水を屍が埋めた。
  • 陶謙は彭城で敗れ郯県に籠城。曹操は睢陵・夏邱なども焼き払ったが郯県は落とせなかった。
  • 陶謙は青州刺史田楷に救援を求め、田楷は平原相の劉備に同行を求めた。

太史慈と北海の危機

  • 劉備が北海相孔融の援軍に赴く経緯として、東萊の太史慈が語られる。孔融は都昌で黄巾の管亥に包囲され、太史慈は母への恩義から単身城に入り、さらに平原の劉備へ救援を求めた。
  • 劉備は「孔北海も自分を知っているのか」と感激し、関羽・張飛と精兵三千を率いて出撃、管亥を敗死させ都昌の包囲を解いた。

劉備、徐州へ

  • 劉備は青州の使者を通じ田楷と合流、陶謙救援に向かう。曹操は兵糧が尽き、田楷・劉備の来援を知って撤退。
  • 劉備は郯城で陶謙にもてなされ豫州刺史に任じられかけるが辞退し、小沛に駐屯した。この頃、甘氏という側室を得て正妻同様に扱った。
  • 曹操が再び徐州を攻めた際、劉備は援軍に赴くが敗退寸前で撤退。陶謙は避難を考えるが、曹操軍が急に撤退したため事なきを得た。

呂布の兗州奪取

  • 陳留太守張邈は元は曹操と親しかったが、袁紹との確執や曹操の非情さ(辺譲の処刑など)に不満を抱く。従事陳宮も曹操に不信を持ち、張邈に呂布を迎え入れ兗州を奪うよう進言。
  • 張邈・張超兄弟は呂布を招き、陳宮の手引きで呂布は兗州牧に迎えられた。鄄城・范・東阿の三城は荀彧・程昱らが死守。
  • 曹操は急ぎ引き返し、程昱の守りで東阿は無事だった。曹操は呂布を「勇あって謀なし」と評し濮陽攻撃に向かう。

濮陽での三度の危機

  • 呂布は戟の武勇で曹操軍を撃退し、曹操自身も落馬しかける(一度目の危機)。
  • 夜襲を仕掛けるも呂布配下の高順に反撃され、包囲の中で猛将典韋の奮戦により脱出(二度目の危機)。典韋はこの功で都尉に抜擢された。
  • 陳宮の策により、田氏の偽りの内応話に釣られて曹操が城内に入り、伏兵に囲まれ火攻めに遭う。呂布本人と鉢合わせしたが、とっさの機転で「あそこの黄馬の男が曹操だ」と欺き、典韋に助けられ辛くも脱出(三度目の危機)。
  • 曹操は動揺する将兵を落ち着かせ、攻城具を整えて三か月にわたり攻防を続けたが、蝗害で食糧が尽き鄄城へ撤退。呂布も山陽へ退いた。

劉虞の最期

  • 幽州牧劉虞と公孫瓚は不和を深め、公孫瓚が薊城近くに築城したことから劉虞は十万の兵で討伐に出るが統制が取れず失敗。
  • 公孫瓚は夜襲で劉虞軍を撃破、劉虞を居庸関まで追い詰めて捕らえた。
  • 朝廷からの使者段訓が来た際、公孫瓚は詔書を偽って劉虞に謀反の罪を着せ、処刑を強要。劉虞とその妻子は処刑され、忠義の臣孫瑾らも殉じた。
  • 公孫瓚は幽州を意のままに操り、さらに冀州を狙う。

曹操、兗州復帰を決意

  • 袁紹は曹操に鄴への移居を勧め、曹操は一時応じかけるが、程昱が「袁紹に臣従する気か」と諫め、曹操は兗州奪還を決意。兵糧・兵を整え、呂布との再戦を期した。

評語

  • 曹操は智略に優れるが経験不足で、父の仇として無関係の徐州民を虐殺したのは「忿兵」であり必敗の兆しであった。陳宮の裏切りと呂布の侵入がなければ兗州を失うことはなかったが、荀彧・程昱がいなければ曹操は帰る所すら失っていた。濮陽での三度の敗戦にもかかわらず生き延びたのは天運によるもので、曹操の智略が優れていたためではない。
  • 劉虞は漢室の名門で人望もあったが、戦略に疎く公孫瓚討伐を誤って一族もろとも滅んだ。小さな仁愛だけでは身を守れなかった。