後漢演義第六十五回 元舅は兵を召すも謀が漏れて殺され、権宦は罪に伏し帝の駕を奉じて帰還する (元舅召兵泄謀被害 權閹伏罪奉駕言歸)

蹇碩の誅殺

郭勝の内通により蹇碩の陰謀を知った何進は、黄門令を使って蹇碩を宮中で捕らえ処刑した。蹇碩配下の兵はそのまま何進の指揮下に組み込まれた。

董太后一族の排除

永楽宮の董太后とその甥の驃騎将軍董重は、皇子協擁立を画策していたが果たせず、何后が実権を握ると圧迫を受けた。何進は董重に印綬の返還を迫って自殺させ、董太后も急死した(何進による毒殺との噂もある)。霊帝は在位21年、34歳で崩御し、董太后の遺骸も合葬された。渤海王協は陳留王に格下げされた。

宦官誅滅を巡る優柔不断

袁紹は何進に宦官の全面粛清を勧めるが、何太后は「宦官を全廃する必要はない」と難色を示す。何進の母舞陽君や弟何苗が宦官から賄賂を受けて宦官擁護に回り、何進はますます決断できなくなる。袁紹の勧めで外兵を召致する策を採るが、主簿陳琳や曹操はこれを危険な策と見て反対した。侍御史鄭泰も董卓を頼ることを諫めたが容れられず、鄭泰・荀攸らは絶望して官を辞す者も出た。董卓は召しに応じて進軍を開始する。

何進、宮中で謀殺される

張譲の子の嫁が何太后の妹であった縁から、張譲は泣いて詫び入り、何太后への取り成しを得て宦官排除は先延ばしにされる。袁紹が独断で宦官の親族逮捕を命じたことで宦官側は追い詰められ、張譲・段珪らは偽の詔で何進を宮中に呼び出し、嘉徳殿で何進を殺害してその首級を城外に投げ出した。

宦官の一斉粛清と少帝の逃避行

盧植や何進配下の呉匡・張璋、袁術らが宮中に攻め入り宦官を虐殺、その数は三千余人に及んだ。何太后は救出されたが、張譲・段珪は少帝と陳留王を連れて北門から逃走。尚書盧植と河南中部掾閔貢が追いつき、張譲・段珪らを斬るか自殺に追い込み、少帝兄弟を保護した。二人は徒歩と板車、馬に乗り継いで夜を明かし、翌朝北邙山で董卓の軍勢と遭遇する。

董卓の入京

董卓は少帝を出迎え、陳留王が冷静に事の次第を説明したことに内心驚嘆しつつ、廃立の意図を秘したまま一行を都へ送り届けた。改元して昭寧とされたが、伝国璽は行方不明のままだった。騎都尉鮑信は袁紹に董卓の早期討伐を勧めるが容れられず、鮑信は兵を解散して帰郷した。

評語

何進が宦官討伐に失敗し殺害されたのは、竇武の失敗と似るが事情は異なる。竇武は宦官を軽んじて墓穴を掘り、何進は逆に宦官を重んじすぎて外兵召致という誤りを犯した。いずれも才略に欠け優柔不断だったことに帰する。陳蕃は迂直で敗れ、袁紹は粗豪で敗れたが、袁紹だけは生き残り宦官二千人を誅滅する結果となった。これは宦官の悪業が極まり天罰が下ったに過ぎず、袁紹が優れていたわけではない。むしろ董卓を都に招き入れたのは袁紹の主謀であり、その罪は漢室を傾けるに至った点で極めて重い。太后・少帝・陳留王が宦官に連れ去られ死に瀕したのは、婦人子供の無知ゆえで責めるに足りない。