後漢演義第六十四回 将壇に登り霊帝が威を張り、宮門に入った何進が危うく救われる (登將壇靈帝張威 入宮門何進遇救)

宦官専横下の乱脈

霊帝は政治を顧みず宮殿の造営や享楽にふけり、宦官が私邸の造営に励む中、各地で反乱が頻発した。江夏の趙慈、滎陽の賊、長沙の区星、零陵の観鵠(孫堅が討伐)、漁陽の張純・張挙(皇帝を自称)、休屠各胡、白波谷の郭太らが相次いで蜂起し、各地の太守・刺史が殺害された。

王芬の廃立謀議とその失敗

冀州刺史王芬は宦官専横に憤り、術士襄楷の予言に励まされて霊帝の廃立を企てるが、曹操は「廃立は伊尹・霍光のような重臣でなければ成し遂げられない」と諫めて誘いを断った。華歆も陶邱洪を思いとどまらせた。天象を理由に霊帝の巡幸が中止されると計画は露見を恐れた王芬が自殺する結末となった。

州牧制度の始まり

太常劉焉は刺史・太守の売官による混乱を憂い、清廉な重臣を牧に任じるよう建言、益州の反乱鎮圧を機に自ら益州牧となった。宗正劉虞も幽州牧に任じられ、これにより州牧が刺史の上に権限を持つ制度が復活し、後の群雄割拠の端緒となった。

西園八校尉の設置と閲兵

霊帝は蹇碩を上軍校尉とし、袁紹・鮑鴻・曹操ら七校尉を配して西園八校尉とした。さらに平楽観に壇を築いて大規模な閲兵式を催し、自ら「無上将軍」と称して騎馬で巡行したが、討虜校尉蓋勲に「実効なき示威にすぎない」と諫められ感じ入った。蓋勲は袁紹と閹党誅滅を謀るが、京兆尹への転任で機を逸する。

涼州平定と皇甫嵩・董卓の確執

皇甫嵩は董卓とともに陳倉を包囲する王国軍を討伐する際、董卓の性急な進撃論を退けて持久策を取り、賊が疲弊したところで一気に撃破し王国を敗死させた。この作戦の当否をめぐり両者は対立を深め、後に董卓が兵権召還に抵抗した際も皇甫嵩は上奏にとどめ討伐を避けたため、董卓の専横を許す結果となった。

幽州の平定

公孫瓚は張純・張挙を各地で撃破するが、鮮卑への包囲戦で苦戦する。劉虞は懐柔策で烏桓の邱力居らを帰順させ張純は部下に討たれたが、公孫瓚は劉虞の懐柔策と対立し確執を残した。劉虞は功により太尉に任じられた。

霊帝崩御と何進の危機

中平六年、霊帝が病に倒れ、上軍校尉蹇碩は皇子協の擁立を図り何進暗殺を画策するが、司馬潘隠の内報で何進は難を逃れる。何后の子である皇子辯(少帝)が即位し、何進が大将軍として実権を握る。蹇碩は宦官趙忠らに何進排除の密書を送るが、これが何進の手に渡ってしまう。

評語

霊帝は軍事を児戯のごとく扱い、宦官の蹇碩に西園諸校尉を統率させるなど本末転倒であった。平楽観の閲兵も虚飾に過ぎず、蓋勲の諫言こそ的を射ている。皇甫嵩・朱儁のような人材を重用せず、婦人と宦官のみを信じたことが、末期に至るまで変わらなかった霊帝の評価である。