後漢演義第六十六回 奸謀を逞しくし権を擅にし主君を替え、逆賊討伐のため血をすすり同盟する (逞奸謀擅權易主 討逆賊歃血同盟)
董卓の権力掌握
- 董卓は入京時の兵力がわずか三千と少なかったため、夜のうちに兵を城外へ出し、翌朝また大々的に旗鼓を鳴らして入営させる偽装を繰り返し、増兵したように見せかけて人心を欺いた。
- 何進兄弟の旧部曲も次々と董卓に取り込まれ、その勢力はいよいよ強大になった。
- 丁原配下の主簿・呂布は、董卓の腹心李肅の説得と名馬赤兎馬・財宝の贈与に心を動かされ、主君丁原を刺殺してその首を持って董卓に降った。董卓は大いに喜び、呂布を騎都尉とし、呂布は董卓を義父と仰いだ。
- 董卓は司空劉弘を弾劾して罷免し、自ら代わった。また蔡邕を強引に召し出し、異例の速さで要職を歴任させた。
廃立をめぐる対立
- 董卓は袁氏の家柄を頼みに廃立を企て、袁隗を太傅に、袁紹には少帝廃立の同意を求めたが、袁紹は正論をもって拒み、董卓と対立して印綬を都の門に懸け、冀州へ出奔した。
- 董卓は百官を集めて廃立を強行しようとしたが、尚書盧植が正論で反対し、董卓の怒りを買って命を狙われかけた。蔡邕・彭伯のとりなしで事なきを得たが、盧植は官を追われ都を去った。
- 九月甲戌、董卓は太傅袁隗らと共に何太后に迫って少帝を廃位させ、陳留王協(後の献帝)を即位させた。少帝は弘農王に落とされ、何太后も永安宮に幽閉された。
何太后・何苗一族の粛清
- 何太后は幽閉先で董卓を罵り続けたため、董卓は鴆酒を送って毒殺した。
- すでに死んでいた何苗の遺骸も掘り出されて八つ裂きにされ、その母舞陽君も処刑された。
董卓の専横と人材登用
- 董卓は自ら太尉となり、老母を池陽君に封じ、劉虞を大司馬、楊彪を司空、黄琬を司徒に任じるなど人事を掌握した。陳蕃・竇武ら旧党人の名誉も回復した。
- 郿侯に封ぜられ、さらに相国に昇り、入朝不趨・剣履上殿の特権を得た。
- 尚書周毖・城門校尉伍瓊の勧めで、荀爽・陳紀・韓融・鄭玄ら名士を登用しようとし、韓馥を冀州牧、劉岱を兗州刺史などに任じて人望を得ようとした。
- 逃亡した袁紹には当初懸賞をかけたが、周毖・伍瓊の取りなしで渤海太守に任じ懐柔した。袁術・曹操も都を離れた。
曹操の逃亡と誤殺
- 曹操は董卓の下を離れて東へ逃れる途中、成臯の呂伯奢の家に泊まったが、物音を怪しんで疑心を起こし、呂家の子や下僕を誤って殺害してしまった。誤殺と知った後、「寧ろ我人に負くとも、人をして我に負かしめず」と言い放って立ち去った。
- その後、中牟の亭長に怪しまれて捕らえられたが、旧知の功曹の取りなしで釈放され、東へ落ち延びた。
- 董卓は捕縛を厳しく追及せず、代わりに配下に略奪(「捜牢」)を許し、財貨・美女を奪わせ、宮中の采女や公主にまで手を出す暴虐ぶりを見せた。
関東義兵の蜂起
- 年が改まり初平と改元されたころ、東郡太守橋瑁が三公の密勅を偽作して各州郡に檄を飛ばし、董卓討伐を呼びかけた。
- 冀州牧韓馥は当初逡巡したが、従事劉子惠の一言で袁紹に同調することを決めた。橋瑁・韓馥に続き、袁術・袁遺・孔伷・劉岱・張邈・張超・王匡らが呼応。曹操も陳留で私財を投じて義兵を集め、鮑信も大軍を率いて参陣した。
- 諸軍は酸棗に集結して壇を築き、広陵郡功曹臧洪が盟約の文を読み上げて歃血の誓いを立てた。盟主には家柄を理由に袁紹が推され、車騎将軍を自称、曹操を奮武将軍とした。
- 長沙太守孫堅も檄に応じて挙兵し、荊州刺史王睿を討ち取って南陽へ向かった。討卓の軍勢は十四路に及んだ。
評語
- 少帝廃立と何氏一族の滅亡は、何太后自身が招いた因果だとする。屠家の娘として国母となりながら奢りを慎まず、王美人や董太后を死に追いやった報いが、自らと一族に返ったのだとする。
- 董卓討伐の義挙自体は正しいが、盟主に推された袁紹は元来董卓を招いた張本人であり、名望だけで盟主に据えたことを批判する。当時智勇に優れていたのは曹操・孫堅の二人にすぎず、他の牧守には見るべきものがないとし、羅貫中『演義』が孔融・陶謙・馬騰・公孫瓚らを討卓軍に加えているのは史実に反すると指摘する。