後漢演義第五十七回 太后を葬るに際し陳球が正論を通し、嗣主を諫め蔡邕が上奏文を奉る (葬太后陳球伸正議 規嗣主蔡邕上封章)

竇太后の晩年と死

  • 竇太后は南宮に幽閉されたまま二年を経ても霊帝は見舞わず、張奐・謝弼の諫言も宦官に阻まれていた。霊帝が宋皇后を立てた頃、ようやく天良が目覚め、十月朔日に群臣を率いて南宮に朝見し祝寿を捧げると太后も喜んだ。
  • 黄門令董萌が竇太后のために弁護したことを曹節・王甫らが恨み、誣告して獄死させたため、太后は再び後ろ盾を失い、霊帝も宦官に惑わされ朝見をやめた。侯覧は驕奢と横暴が露見して自殺に追い込まれたが、曹節・王甫の専権は変わらなかった。
  • 竇太后は生母の遺骸すら日南から帰葬できぬまま憂鬱のうちに熹平元年六月に南宮で病没した。宦官らは貴人の礼で葬ろうとしたが、霊帝は「太后が自分を立ててくれた恩」を理由にこれを退け、正式に喪を発した。

陳球の直言と合葬論争

  • 曹節らは竇太后を別葬し馮貴人を桓帝に配祀しようとし、朝議に付された。太尉李咸は病を押して参内し、竇太后を桓帝に合葬すべきと決意していたが、廷尉陳球が先に「太后には母儀の徳があり、馮貴人は盗掘され骸骨が汚された者で配祀にふさわしくない」との議を起草し、大方の賛同を得た。
  • 中常侍趙忠は不快感を示したが、陳球は怯まず直言し、李咸も同調、群臣も追随した。それでも曹節・王甫は霊帝に別葬を説き続けたが、李咸が上奏(竇太后は霊帝の母であり子は母を貶められないとの論)し、霊帝はついに竇太后を宣陵に合葬し桓思皇后と追諡した。

段熲の変節と渤海王悝の悲劇

  • 竇太后合葬後、朱雀闕下に曹節・王甫を弾劾する匿名の貼り紙が現れた。司隷校尉劉猛の捜査が緩慢だったため左遷され、代わって段熲が司隷校尉となり、太学生千余人を拘束して尋問したが証拠は得られなかった。段熲は劉猛をさらに弾劾し失脚させた。
  • 大司農張奐は宦官と対立し、王寓の讒言で党人に阿附したとして禁錮に処された。段熲はさらに張奐に自裁を迫ったが、張奐が哀切な書簡を送ると段熲も憐憫の情を起こし、無事帰郷させた。
  • 中常侍王甫は、渤海王劉悝が鄭颯・董騰と結んでいると段熲に密告させ、大獄を興した。悝はかつて王甫に賄賂を約束して封国復帰を得たが約束を反故にしたため恨みを買っており、廉忠らの誣告により逮捕され、自尽を強いられた。悝とその妃妾・子女ら多数、及び属官までもが連座して死んだ。鄭颯・董騰も誅殺された。王甫は冠軍侯に、曹節も食邑を増され、二人の一族は朝廷の要職を占めた。
  • 王甫の弟・破石は営吏の妻の美貌に目をつけ献上を強要、その妻は服毒自殺して節を守ったが、破石は逆に営吏の警備不行き届きを咎めて罷免するという酷薄ぶりを見せた。

三互法と辺境の荒廃

  • 熹平二年、疫病・地震・海溢などの災異が続き、霊帝は大臣を次々更迭。段熲を太尉とするなど宦官と通じる者が抜擢された。会稽の許生が反乱を起こし越王・陽明皇帝を僭称したが、孫堅(初出)の活躍もあり臧旻・陳夤に討伐された。
  • 官吏任用を制限する「三互法」(縁戚関係や同郷同士の相互赴任を禁じる規定)が施行され、幽并二州で鮮卑の侵攻が続く中でも官職の欠員が埋まらず防備が悪化した。議郎蔡邕はこの弊害を上書で諫めたが、聞き入れられなかった。

蔡邕の来歴と経学整備

  • 蔡邕(字伯喈)は陳留の人で、清廉な家系の出身。母への孝行と経学・音律の博識で名を馳せ、橋玄に召されて出仕、議郎に至る。五経の文字の乱れを正すべく、堂谿典・楊賜・馬日磾らと共に六経の文字を校訂し、古文・篆・隷の三体で碑石に刻んで太学門外に建てた(熹平石経)。
  • 霊帝は経学よりも辞賦・書道など趣味に傾倒し、鴻都門学に俗流の文人を集め、市井の小民にまで「宣陵孝子」の名を与えて郎中に任じるなど乱脈な人事を行った。

曹鸞の直訴と獄死、災異と七事の上奏

  • 永昌太守曹鸞は党人赦免を訴える上書をしたが、逆に捕らえられ拷問の末に獄死し、霊帝はさらに党禁を五族にまで拡大した。
  • その後暴風雨・雷鳴・雹などの災異が続き、霊帝が群臣に対策を求めると、蔡邕は封事で「祭祀の粛正・忠諫の受容・賢才の登用・讒人の排除・浮薄の士の排斥・考課の厳格化・詐偽の懲罰」の七事を上奏したが、霊帝は結局実行しなかった。
  • その年の秋、鮮卑への北討が発せられると、蔡邕は再び反対の意見を述べた。

評語

  • 竇太后の南宮幽閉は自業自得の面もあるが、竇武・陳蕃の誅殺の陰謀に太后自身は関与していなかった。曹節・王甫は太后の無力を知りながら根絶やしを図り、清議を恐れて即座には殺さなかったに過ぎない。霊帝が太后の恩を顧みず、死後も改葬をめぐって逡巡したことは、陳球・李咸の直言がなければ太后の遺恨は晴れなかったであろう。
  • 蔡邕の上奏は正論ではあるが迂遠・虚浮の嫌いがあり、才はあれど忠が徹底しなかったと評される。曹鸞が一言で獄死したことを思えば、この乱世では直言も容易ではなく、蔡邕の欠点は「去るべき時に去らなかった」ことにあるとする。