後漢演義第五十六回 段熲は百戦して羌族を平定し、曹節は一網打尽に名士たちを滅ぼす (段熲百戰平羌種 曹節一網殄名流)
段熲の羌討伐再開
- 并涼一帯の羌族は反服を繰り返し、段熲・皇甫規らの討伐で一時鎮まっていたが、両将が讒言で罪を得て召還されると再び勢いを盛り返した。
- 段熲は西州の吏民の訴えで冤罪を免れて議郎となり、并州刺史を経て、滇那らの羌が武威・酒泉・張掖を侵すと護羌校尉に再任された。滇那らは段熲の威名を恐れ戦わずに降った。
- 当煎・勒姐など従わない羌種に対しては段熲が数年にわたり出撃し、山谷を転戦して数十戦、首級二万三千余、捕虜数万、馬牛羊八万余頭を得て諸部落を降し、西羌はほぼ瓦解した。功により都郷侯に封じられる。
先零羌との激戦
- 鮮卑が東羌を誘って河西を侵させたため、中郎将張奐は招撫を主張し東羌の多くは降ったが、先零羌のみ従わなかった。皇甫規の使者による説諭にも先零は従わず、三輔を侵したため張奐は尹端・董卓(董卓の初出)に討たせ首級一万余を斬った。
- 桓帝末年、朝廷が羌対策を諮ると段熲は招撫策を退けて征討を主張し、認められて出兵。彭陽から高平を経て逢義山で羌の大軍と対峙、将士を叱咤して奇襲を敢行し、強弩・長矛・利刃の三重陣と左右両翼の騎兵で挟撃し、羌軍を大破(斬首八千余、牛羊二十八万頭鹵獲)。
- 霊帝即位後、竇太后により破羌将軍に進み、さらに敗残の羌を追って走馬水・奢延澤・向落川と転戦、田晏・夏育の別動隊と挟撃しつつ令鮮水・靈武谷まで追撃を続け、羌軍を各地で撃破した。三日三夜追撃を続け、涇陽で兵の疲労のため停止。
- 中郎将張奐は寛容策への転換を進言し朝廷も慎重を求めたが、段熲は上奏文でこれに反論し、招撫策の失敗と征討継続の必要性、費用対効果を論じて強硬に討伐続行を主張した。
東羌の平定
- 朝廷が内紛(竇武・陳蕃らの誅殺等)で応答しない間に、段熲は独断で東羌への再攻撃を決行。凡亭山で対峙し、田晏・夏育の軍が羌の挑発に応じて撃破、羌は射虎谷に敗走。
- 段熲は退路を柵で塞ぎ、東西の山を制圧して挟撃、射虎谷に篭る羌を殲滅(斬首一万九千余)。降伏した四千人のみ安定・漢陽・隴西に分置し、東羌はここに平定された。
- 二年間で百八十戦、斬首三万八千六百余、鹵獲四十二万七千五百余、戦費四十四億、味方の死者は四百余人のみという戦果により、段熲は新豐侯(食邑一万戸)に進封。皇甫規(字威明)・張奐(字然明)・段熲(字紀明)は「涼州三明」と並称された。
党錮の獄・李膺と范滂の死
- 竇武・陳蕃の失敗以降、李膺・杜密ら清流の士は禁錮されたが名声はむしろ高まり、「三君」(竇武・陳蕃・劉淑)、「八俊」(李膺・杜密・荀昱・王暢・劉祐・魏朗・趙典・朱寓)、「八顧」(郭泰・巴肅・夏馥・范滂・尹勲・蔡衍・羊陟ほか)、「八及」「八廚」など名士が称揚された。
- 中常侍侯覧は張儉に墓を暴かれた恨みから、同郷の朱並に儉を誣告させ、儉ら二十四人が謀反を企てたとして逮捕令が出た。長楽衛尉曹節はさらに李膺・杜密・范滂らの逮捕も画策し、幼い霊帝は曹節の言うがまま逮捕を許可した。
- 李膺は逃げず自ら詔獄に赴いて獄死。侍御史景毅は弟子が連座を免れたことを恥じ自ら官を辞した。范滂は督郵吳導が捕縛をためらって涙するのを察して自ら出頭し、県令郭揖の勧める逃亡を断り、母との今生の別れの後、獄死した。他に虞放・朱寓・荀昱・劉儒・翟超らも捕らえられ冤死し、妻子は辺境に流された。
党獄の拡大と孔融の逸話
- 党獄の連座は死者百余人、流罪・禁錮に及んだ者六七百人に達した。郭泰は八顧の一人だが穏健さゆえ累が及ばず、正人の枉死を嘆いて漢の衰亡を予感した。
- 張儉は逃亡して捕まらず、匿った者が代わりに罪を受けた。魯の孔褒の弟・孔融(十六歳)が儉を泊めたことが発覚し、孔融・孔褒・その母が互いに罪を引き受けようとしたため、朝廷は結局孔褒のみを罪に問い、孔融と母を釈放した。孔融は幼少期の「小児は小梨を取るべき」の逸話や、李膺邸での機知に富んだやり取りで早くから名声を得ていた。
- 夏馥は張儉に累が及ぶのを恐れ姓名を隠して逃亡し傭人として暮らした。袁閎は土室に籠り母以外との面会を絶ち十八年を過ごして病没。陳寔は張讓の父の葬儀に赴くことで潁川の名士を庇護した。申屠蟠は戦国末期の「焚書坑儒」を恐れて梁碭に隠れ、党獄の累を免れた。
結末
- 二年後、霊帝が加冠の礼を行い大赦したが党人のみは赦されなかった。
評語
- 西羌討伐は既定路線として是とするが、聖王の夷狄への対処は「叛けば討ち、服せば赦す」ものであるべきで、張奐の招撫策・段熲の徹底征討策はいずれも一偏の見解であり、三万八千余の斬首は殺戮に過ぎるとの批判がある。
- 外患は平定できても内患(宦官の専横)は除けず、党獄によって名流が尽く滅ぼされたことは、羌の害以上に国の命脈を損なったと論じる。李膺・杜密・范滂らが韜晦せず標榜に走り、禍を身と親族に及ぼしたことも惜しまれる一方、郭泰・申屠蟠らの処世は卓越していたと評する。