後漢演義第五十八回 母を棄て城を守り趙苞が敵を破り、君を惑わし毒を逞しくし程璜が讒言を仕組む (棄母全城趙苞破敵 盅君逞毒程璜架誣)
鮮卑遠征の失敗
- 鮮卑の大酋・檀石槐は強盛を恃んで漢に服さず、幽并の諸州を侵し続けた。田晏・夏育はかつて段熲に従い羌を破った功で護羌校尉・烏桓校尉に任じられていたが、田晏は罪を得て功で贖おうと出征を望み、夏育も鮮卑征討を上奏した。
- 議郎蔡邕は再三、鮮卑討伐に反対する上奏をしたが(匈奴以来の鮮卑の強大化、辺境の患いは国の疥癬に過ぎず内憂の方が重大である、など)、王甫の後押しで霊帝は聞き入れなかった。
- 田晏・夏育・臧旻の三路軍、三、四万は塞外二千余里で檀石槐の東西中三部の軍と遭遇し、疲弊した漢軍は大敗、輜重・漢節まで失い十死七八の惨敗を喫した。三将は帰還後に贖罪金を出して庶人に落とされた。
趙苞の悲劇
- 清廉な趙苞は遼西太守に抜擢され、城塞を整備し辺境の要となっていた。着任の翌年、老母と妻子を迎えに使者を送ったところ、鮮卑の遊撃隊が柳城で家族を捕らえ、遼西太守の身内と知って一万余の兵を率いて遼西に迫り、これを人質に降伏を迫った。
- 趙苞は母への孝と国への忠との間で苦悩したが、母自身が「王陵の母」の故事を引いて忠義を貫くよう諭したため、趙苞は決戦を決意。鮮卑は母・妻子を殺害して首級を趙苞の陣に投げ込んだが、趙苞は激憤して鮮卑軍を撃破し撃退した。
- 趙苞は母妻子の遺骸を葬り、辞職を願い出た。霊帝は弔慰し鄃侯に封じたが、趙苞は「食禄しては忠を全うできず、母を犠牲にしては孝を全うできない」と嘆き、まもなく血を吐いて急死した。趙苞は中常侍趙忠の従弟だったが不仲で音信不通だったため、忠は諡号すら贈らなかった。
朝廷人事の混乱と怪異
- 太傅は欠員のまま、太尉・司徒・司空は頻繁に交代した。熹平七年、日食・地震が続く中、根拠のない瑞祥(喜鵲が石に変じ「忠孝侯印」の金印が出た捏造話)により張顥が太尉に登用されるなど、人事は宦官の意のままだった。
- 光和元年、地震・雌鶏の変・宮中に白衣人が出没する怪異・黒気や青虹の出現など異変が相次ぎ、霊帝は楊賜・蔡邕らに諮問した。
蔡邕の封事と讒害
- 蔡邕は密封の上奏で、婦人の宮中干政(乳母趙嬈、永楽宮門吏霍玉ら)を批判し、太尉張顥・光禄勲偉璋・趙玹・蓋升ら佞臣の罷免と、郭禧・橋玄・劉寵ら忠実な人材の登用を進言した。
- 曹節がこの内容を盗み見て自派への批判と知り、内容を漏らして騒ぎを起こした。蔡邕と不仲だった大鴻臚劉郃、及び蔡邕の叔父蔡質と対立する将作大匠陽球の岳父・中常侍程璜が、蔡邕が私怨で劉郃を陥れようとしたと誣告し、霊帝は蔡邕を尋問させた。
- 蔡邕は上書で潔白を訴えたが、程璜の強い主張により投獄された。死罪を求刑されたが、清廉な中常侍・呂強が霊帝に直訴して減刑を得、蔡邕は髡鉗刑で朔方に流された。陽球が放った刺客は蔡邕の人柄に打たれて裏切り、追加の買収工作も看守が蔡邕に密告したため未遂に終わった。
宋皇后の廃死
- 寵愛の薄かった宋皇后は、渤海王悝の妃が姑母であった縁から王甫に狙われ、「左道で皇帝を呪詛した」との讒言で廃され、暴室に幽閉されて死んだ。父の宋酆や兄弟も誅殺され、後に宮中の同情する者たちが密かに遺骸を集めて改葬した。
評語
- 趙苞が母を棄てて城を守ったことは忠義とはいえ義に暗いとの評があり、退兵して母の生還を図る余地もあったはずで、彼の過ちは義に暗いことよりも智謀の不足にあるとする。
- 蔡邕は再三の諫言が容れられなかった時点で身を引くべきだったのに朝廷にとどまり、奸人の陥穽に落ちた。呂強がいなければ一族皆殺しにされていたはずで、才はあっても智謀に欠けていたと評す。曹節・程璜らの罪は論ずるまでもないとする。