後漢演義第五十五回 蠹賊を討とうとして計を誤り災いに遭い、蛇の妖に感じ進言するも帝の意に逆らう (驅蠹賊失計反遭殃 感蛇妖進言終忤旨)

密謀の発覚と宦官の先手

  • 霊帝建寧元年八月、太白星の異変を機に侍中劉瑜が竇武・陳蕃に決断を促す。竇武・陳蕃は謀って長楽尚書鄭颯を捕らえ、獄中で尋問させたところ曹節・王甫の関与する供述を得た。竇武は安心して帰邸したが、これが命取りとなった。
  • 奏章を運ぶ役人から情報が漏れ、長楽宮の五官史朱瑀が内容を盗み見て激怒。「陳蕃・竇武が皇帝廃立を企てている」と偽って長楽宮の従吏十七人を糾合し、曹節・王甫に急報した。
  • 曹節は幼い霊帝を促して前殿に出御させ、宦官が剣を帯びて尚書官属を脅し、偽の詔書を作らせた。王甫は北寺獄に赴き尹勛・山冰を斬殺し、鄭颯を救出した。

竇武・陳蕃の敗死

  • 王甫は竇太后から璽綬を奪い、宮門を封鎖。竇武は兵営に逃れ甥の竇紹と共に抗戦を試みたが、宦官側は車騎将軍代行の周靖と護匈奴中郎将張奐の軍を動員して包囲した。
  • 陳蕃は官属・諸生八十余人を率いて宮門に迫ったが、王甫の軍に囲まれて捕らえられ、宦官の従官に殴打された末、獄中で殺害された。
  • 竇武軍は宦官側の説得と張奐軍の攻勢により離散、竇武・竇紹は追い詰められて自刎、首は都亭に晒された。竇氏一族・親戚・賓客は皆誅殺され、妻妾のみ日南へ流された(竇武出生時の蛇の異兆が回想される)。竇武の孫竇輔は掾吏胡騰に匿われて生き延びた。
  • 劉瑜・劉述も捕らえられ一族もろとも処刑。竇太后は南宮に移された上、劉淑・魏朗も竇武らとの通謀を誣告され自殺に追い込まれた。竇武・陳蕃に連なった者は軒並み免官・禁錮となった。

義士たちの節義

  • 議郎巴肅は自ら出頭して刑死を受け入れた。銍令朱震は陳蕃の遺体を収葬し、その子陳逸を匿って自身は拷問にも屈せず口を割らなかった。胡騰と張敞は竇武の孫竇輔を守り、後に献帝の代になって竇氏の血統が明かされ、家名を継がせた。

曹節・王甫の栄達と張奐の後悔

  • 曹節・王甫らは論功行賞で列侯となり、張奐も侯に封じられたが、事の真相を悟り固辞するも許されなかった。
  • 霊帝が生母董貴人を孝仁皇后として迎えた頃、青蛇が御座に現れ、大風雨雹の災異も起きた。詔により直言を求められた張奐は上疏し、竇武・陳蕃の冤罪を訴えてその改葬と家族の赦免、竇太后への孝養を求めたが、霊帝は動かされつつも宦官に阻まれ実行しなかった。

諫言と粛清の連鎖

  • 太傅胡広は要職を歴任しながら是非を問わず円滑に立ち回る人物として世に評された。張奐は李膺らの三公起用を進言したが宦官の恨みを買い、自身も譴責された。
  • 郎中謝弼は天変を理由に上疏し、竇太后への孝養、陳蕃の名誉回復、無能な三公の罷免、李膺・王暢の登用を訴えたが、宦官の恨みを買って左遷され、さらに曹節の甥に誣告されて獄死した。
  • 楊秉の子で光禄勲となった楊賜も、経典を引いて婦人の専横や側近の禍を暗に諫めたが、具体的な言及を避けたため無事だったものの、建言はやはり実効を上げなかった。

辺境の朗報

  • 内政は乱れる一方だったが、東西の羌族討伐だけは順調に進み、平定の報が届く。功績を挙げた人物については次回に語られる。

評語

竇武の失敗は油断にあり、陳蕃の失敗は愚直さにあった。曹節・王甫らは宮廷に深く根を張っており、万全を期すべきところを、竇武は帰邸して備えを怠り、陳蕃はわずか八十余人で宮門に迫るという無謀に出た。両者の族滅は自ら招いた面が大きい。張奐は北方の豪傑でありながら宦官の爪牙となった罪は免れず、後に改葬を求めたのも過去を覆い隠す弁明に過ぎない。対して謝弼は官位低くとも直言を貫いた点で、張奐とは同列に論じられない。