後漢演義第五十四回 問官に反論し范滂が正義を貫き、奸党を嫉み竇武が意見を陳べる (駁問官范滂持正 嫉奸黨竇武陳詞)
陳蕃の再諫と免職
- 党人二百余人が捕らえられる中、太尉陳蕃は上疏し、李膺・杜密・范滂らの正しさを説き、秦の焚書坑儒に等しい弾圧だと諫めた。桓帝はかえって陳蕃を党人の首魁と疑い、辟召の不備を口実に罷免、周景を後任の太尉とした。
竇武の上奏と党人の赦免
- 一年余り党人が赦されぬ中、賈彪が竇武・霍諝に働きかけ、竇武は上疏して李膺・杜密・陳翔・范滂らの冤罪を訴え、陳蕃・胡広ら朝臣の賢良を挙げて宦官の専横を糾した。
- 竇武は官印を返上して抗議したが桓帝は受理せず。霍諝も釈放を上奏し、桓帝はようやく折れ、中常侍王甫に獄中の党人を尋問させた。
- 王甫の尋問に対し范滂は「善を極め悪を退けようとしただけだ」と堂々と答え、「死後は首陽山のほとりに葬られたい」と述べて王甫を感動させた。桓帝は二百余人を釈放したが、三府への任官禁止(禁錮)は終身続けられ、年号を永康と改めた。
- 范滂は釈放後も霍諝に礼を述べず、故事を引いて「恩に謝す必要はない」と説明。郷里への帰路では歓迎を辞退し、目立たぬよう戻った。
- 平原相史弼は党人狩りの風潮の中で一人も密告せず、上司に対して「風俗の異なる他郡と同列に扱えぬ」と突っぱねて処罰を免れた。会稽の楊喬は桓帝の娘婿にと望まれたが、宦官が政を壟断する世に望みなしとして固辞し、絶食して死んだ。
天変と桓帝の崩御
- この年、地震・洪水などの災異が相次いだが、各地は宦官へのおもねりから偽りの瑞祥を報告した。
- 大司農張奐は鮮卑・烏桓の反乱を鎮圧し、烏桓は帰順したが鮮卑の檀石槐は勢力を拡大し辺境を脅かし続けた。
- 桓帝は政務を顧みず田聖ら寵妃と享楽に耽った末、三十六歳で崩御。在位中に三度立后しながら一人の男児も得られなかった。
- 竇皇后は父竇武と諮り、侍御史劉儵の推挙で河間の解瀆亭侯劉宏(十二歳)を後継に迎えた。かつての童謡が後にこの経緯を予言していたと噂された。
竇太后の摂政と陳蕃・竇武の登用
- 劉宏(霊帝)が即位すると竇太后が摂政となり、まず田聖ら寵妃を処刑。竇武を大将軍とし、陳蕃を太傅に任じて竇武と共に尚書事を統括させた。竇武一族も次々に封侯された。
- 涿郡の盧植は竇武に書を送り、外戚として過度の恩賞を受けることの危うさを説いたが、竇武は聞き流した。
- 陳蕃・竇武は李膺・杜密ら党人を復職させ、宦官排除を志したが、竇太后は乳母趙嬈や女尚書らに取り巻かれ、宦官曹節・王甫らとも結んでいたため、事は容易に進まなかった。
- 陳蕃は竇武に宦官誅殺を説き、竇武は太后に上奏したが、太后は「宦官は古来の制度、罪ある者だけを罰すればよい」と全廃には応じなかった。ようやく管霸・蘇康の処刑には同意させたが、曹節らの誅殺は先延ばしにされた。
- 陳蕃は重ねて上疏し曹節・王甫らの排除を求めたが、竇太后はなお動かなかった。両者は宦官と後宮の女官らと完全に敵対する形となり、天変の兆しが現れ始めた。
評語
范滂の獄中問答は正々堂々として恥じるところがなく、霍諝への不謝も私を明らかにする配慮であった。しかし乱世で正論を唱え続けたことが、結局は身を滅ぼす結果となった。竇太后即位後、陳蕃・竇武は権を握りながら、密かに一挙に宦官を掃討する策を取らず、太后に繰り返し訴えるのみで機を逸した。陳蕃自身「危言は禍を招く」と知りながら事を急がなかった矛盾は、識者にはすでに彼らの限界として見えていた。