後漢演義第五十三回 軍心を鼓舞し陣営を焼く巧計を施し、讒言を信じ厳詔で名賢を捕える (激軍心焚營施巧計 信讒構嚴詔捕名賢)
度尚の計略と荊南の平定
- 桂陽太守陳奉が長沙・桂陽の賊を破った後も、卜陽・潘鴻らの残党が山中に潜んで略奪を続けた。荊州刺史度尚は兵を率いて連戦連勝したが、士卒が戦利品に満足して戦意を失った。
- 度尚は「郡兵の応援を待つ間、狩猟で鍛練せよ」と偽って全軍を営外に出させ、その隙に密かに自軍の陣営を焼き払った。士卒は財貨を失った怒りから奮起し、翌日賊の本拠を急襲して卜陽・潘鴻を討ち取り、荊南を平定した。
- その後も朱蓋らの乱、零陵での陳球の籠城戦(水攻めを逆用して撃退)などが続いたが、度尚・抗徐らの活躍で最終的に鎮圧された。
李膺の剛直と党人の萌芽
- 司隷校尉に復帰した李膺は、暴虐な小黄門張讓の弟張朔を壁の中に隠れていたところを捜し出し処刑した。桓帝の詰責にも「政務怠慢を恐れての処断」と堂々と答え、桓帝は張讓を叱って李膺を退がらせた。以後、宦官は李膺を恐れて休暇にも宮外に出なくなった。
- 太学生は李膺・陳蕃・王暢を「天下楷模」と称え評判を広めたが、これが君子・小人の党派対立を先鋭化させ、後の党錮の禍の温床となった。
甘陵・南陽の党争の発端
- 桓帝の師周福と河南尹房植の門下がそれぞれ徒党を組んで争ったのが「党人」呼称の起こり。さらに汝南太守宗資の功曹范滂、南陽太守成瑨の功曹岑晊が実権を握り、宦官と結んだ豪族張泛・趙津の処断を巡って対立が激化した。
- 張泛の処刑後に恩赦が出されたため成瑨は詔違反を問われて獄死、趙津を処刑した太原太守劉瓆も同様に処罰された。山陽太守翟超も宦官侯覧の墓を暴いた罪で処罰され、東海相黄浮と同じ左校送りとなった。
陳蕃の諫言と党獄の勃発
- 陳蕃は上疏して成瑨・劉瓆・翟超・黄浮の赦免を求めたが桓帝は聞かず、逆に詔で陳蕃を責めた。
- 平原の襄楷も宦官の専横と桓帝の淫楽を諫めたが投獄された。符節令蔡衍・議郎劉瑜も連座して免官、成瑨・劉瓆は獄死し、逃亡した岑晊・張儉は各地で匿われた(張儉は李篤の助けで脱出、岑晊は新息長賈彪に拒まれた末に病死)。
- 河内の術士張成が恩赦を予見して子に殺人を犯させ、李膺がこれを処刑したことに宦官が反発。張成の弟子牢修に「李膺が太学生と結党し朝廷を誹謗している」と誣告させ、桓帝はこれを信じて党人の大逮捕を全国に布告した。
- 太尉陳蕃は名簿への署名を拒んだが、桓帝は激怒し李膺を投獄、杜密・陳翔・陳寔・范滂ら二百余人が次々と捕らえられた。
党人たちの気概
- 杜密は北海相として宦官子弟を厳しく取り締まり、「知りながら言わぬは寒蟬(沈黙する蟬)と同じ」と評される。陳翔は宦官縁故の太守を摘発したことで恨みを買った。
- 陳寔は「私が出頭しなければ誰を頼れよう」と自ら投獄を願い出た。范滂も昂然と入獄し、「臯陶が私の無実を知れば天帝に訴えるはず」と獄吏の祭祀要求を退けた。
- 度遼将軍皇甫規は、自分も党人に連なる行為(張奐の推挙、張鳳らの助命嘆願)をしたとして自ら処罰を願い出たが、桓帝は取り合わなかった。
評語
国家が兵を設けるのは盗賊を防ぐためであり、度尚の焼営の計略は詐術ながら、訓練不十分な寄せ集めの兵を動かすための已むを得ぬ権道であった。李膺らは剛正であったが、宦官が政を専らにする時勢には身を退くのが賢明であり、性急な直言が天下に禍を及ぼした点は愚忠と言わざるを得ない。徐孺子・郭林宗の「大木は一縄で支えられぬ」「天が廃すものは支えられぬ」という達観こそ権変を知る言葉であり、両名が党禍を免れた所以である。