後漢演義第五十二回 後進を導き郭林宗の声望が重く、中宮を替え鄧皇后が幽閉死する (導後進望重郭林宗 易中宮幽死鄧皇后)
徐稚の弔問と郭泰の人物眼
- 黄瓊の葬儀に現れた謎の書生は、南昌の高士徐稚(字孺子)であった。陳留の茅容が追いついて事情を聞くと、徐稚は国事には答えず農事のことだけ語り、「大樹が倒れようとしているのに一本の縄では支えられない、郭泰(字林宗)に無理をするなと伝えよ」とだけ言い残した。
- 郭泰は人物鑑識に優れ、多くの後進を育てた。貧しい老母孝行の茅容、破れた甑を顧みなかった孟敏、孝女緱玉を弁護した申屠蟠らを見出し、学問を勧めて名を成させた。自身は宦官専横の世を見抜き、「天が既に廃そうとしているものを支えられない」として仕官を拒み続けた。
郭泰をめぐる人々
- 蒲亭長仇香は徳をもって民を教化し、考城令王奐に推されて太学に入るが、無用な交遊を戒め、学業を終えると隠棲した。郭泰は身分を問わず教えを乞う者を受け入れ、魏昭・宋果・賈淑らを善士に変えた。
- 光禄勲主事范滂は郭泰を「隠れて親を欠かず、俗を絶たずして節を守る、天子も諸侯も及ばぬ人物」と評した。
- 郭泰が母の喪で嘔血するほど悲しんだ折、徐稚が黙って弔いの品を置いて去ったが、郭泰は自分にはその資格がないと恥じ入った。徐稚は陳蕃の招きにも応じず、隠者として一貫した。
陳蕃の直諫と桓帝の遊興
- 侍中爰延は桓帝に「陳蕃が政を執れば治まり、宦官が政に関われば乱れる」と直言したが、桓帝は聞き流した。
- 桓帝が広成苑で校猟を行った際、光禄勲となった陳蕃は「田野・朝廷・倉庫の三空」の弊害を挙げて諫めたが聞き入れられず、随行の近臣は道々私腹を肥やした。
三公の交代と皇甫規・張奐の辺境防衛
- 太尉劉矩・司空劉寵は災異を理由に相次いで免官、種暠も病死。楊震の子楊秉が太尉、周景が司空となり、二人は連名で宦官子弟の罷免を上奏、桓帝はこれを容れた。
- 皇甫規は度遼将軍として朔方に赴き、武威太守張奐を推挙して自らその副となった。張奐は羌族への恩威併用で幽・并二州を安定させた。
桓帝の南巡と侯覧・左悺の失脚
- 桓帝は章陵祭祖を名目に南巡し、途中の需索は校猟時以上に激しかったが、護駕従事胡騰の建言で綱紀が保たれた。
- 益州刺史侯参(中常侍侯覧の弟)の暴虐が発覚し、太尉楊秉の弾劾で逮捕・自殺。楊秉はさらに侯覧を弾劾する上奏を行い、桓帝はやむなく侯覧を罷免した。
- 司隷校尉韓縯が左悺兄弟らの罪を暴くと、左悺・左称は服毒自殺。貝瑗の兄も罪を問われ、貝瑗は爵位を落とされた。単超・唐衡・徐璜もすでに世を去っており、これをもって「五侯」体制は終焉した。
鄧皇后の廃死と新たな寵愛
- 鄧皇后の一族は権勢を誇っていたが、桓帝の寵愛が薄れると鄧后は怨言を漏らし、郭貴人との確執が生じた。郭貴人の讒言により延熹八年正月、鄧后は廃されて幽閉死し、一族も獄死・除爵となった。
- 河南尹李膺は宛陵の羊元群を弾劾しようとしたが、逆に宦官への賄賂で投獄され左校送りとなった。馮緄も部下処分を巡って同様に処罰された。中常侍蘇康・管霸の田産横領を摘発した大司農劉祐も投獄された。
- 太尉楊秉は李膺らの冤罪を晴らそうとする矢先に病死。桓帝は陳蕃を太尉に任じ、陳蕃は固辞しつつも受命、李膺・馮緄・劉祐の赦免を繰り返し訴えたが桓帝は答えなかった。
応奉の上疏と竇貴人の立后
- 司隷校尉応奉が上疏して三人の功績を訴えると、桓帝はようやく赦免に応じた。
- 桓帝は寵愛する采女田聖を皇后に立てようとしたが、応奉・陳蕃らの反対で世家出身の竇貴人(竇武の娘)を立后。しかし桓帝の寵愛は依然として田聖にあった。
評語
郭林宗の「隠れて親を欠かず、俗を絶たず」は生涯を貫く確評である。乱世にあって支えきれぬ大勢を悟りつつも、後進を育てて一縷の文脈を残そうとした点は孔孟にも通じる。一方、陳蕃・李膺らは進むを知って退くを知らず、鄧后の廃死には沈黙しながら竇后の擁立には熱心であった点に、後の禍根がすでに萌していた。