後漢演義第五十一回 一銭を受け取った廉吏が官を遷され、群閹を弾劾し直臣が闕下に伏す (受一錢廉吏遷官 劾群閹直臣伏闕)
第五種の脱出と単超一族の専横
- 宦官に逆らって朔方へ左遷された第五種は、朔方太守が単超の外孫であったため殺されかける危険にあったが、かつての属吏孫斌が俠客を率いて追いつき、護送吏を討ち取って種を救出、知人の閭子直・甄子然の家に匿った。単超の死後ようやく赦されて故郷に戻り、天寿を全うした。
- 単超が延熹二年に病死すると、朝廷は破格の厚葬を行った。残る左悺・貝瑗・徐璜・唐衡の四侯はいよいよ驕り高ぶり、豪邸を築き美女を蓄え、一族を各地の太守・県令に取り立てて権勢を恣にした。
- 下邳令となった徐璜の甥徐宣は、汝南太守李暠の娘を側室に望んで拒絶されると、力ずくで娘を奪い、辱めた末に弓の的にして殺害した。李家の訴えを太守は宦官を恐れて放置したが、東海相黄浮が正義感からこれを裁き、徐宣を斬った。徐璜は桓帝に讒言して黄浮を左校の労役に落とした。
- 左悺の兄左勝の下で働くことを恥じた皮氏県長趙岐は官を棄てて逃げたが、唐衡の兄唐玹に一族数十人を皆殺しにされ、自身は変名して逃げのび、後に并州刺史に復帰した。
劉寵の「一銭太守」
- 太尉黄瓊が病で退くと劉矩が後任となり、のち黄瓊が再び司空となるがすぐ辞任、大鴻臚劉寵が司空に進んだ。劉寵はかつて会稽太守として善政を敷き、離任の際に見送りの父老たちが贈った銭のうち一枚だけを受け取り残りは辞退した。これが「劉寵一銭」の故事となった。
- 劉寵・劉矩・司徒種暠が力を合わせて政を輔け、当時は清平と称された。
- 李固の遺児李燮は姉文姫の戒めを守り、交遊を絶って議郎となった。恩人王成の死後は礼を尽くして供養した。
皇甫規と羌族討伐
- 延熹年間、西羌が度々叛いた。護羌校尉段熲は転戦して戦果を上げたが、涼州刺史郭閎の妨害により兵が瓦解、逆に段熲が誣告され投獄された。
- 泰山太守皇甫規は上書して自ら羌討伐への起用を願い出、中郎将として涼州に赴任。羌軍を破って多数を投降させ、疫病で苦しむ将士を自ら見舞って士気を上げ、汚職官吏を弾劾して羌族の信頼を得、十数万人を帰順させた。
- しかし宦官たちは私党を弾劾された恨みから、皇甫規が羌族から賄賂を受けて偽りの降伏を演出したと讒言。桓帝はこれを信じて詰責の書を下した。皇甫規は上書して功績と清廉を訴えたが、都に召還され議郎に落とされた。
- 中常侍徐璜・左悺が賄賂を求めても皇甫規が応じなかったため、旧案を蒸し返されて投獄・左校送りとなったが、太学生張鳳ら三百余人の嘆願により赦免された。
馮緄の南方平定と宦官の妨害
- 長沙・零陵・桂陽で盗賊が蜂起し、御史中丞盛修は敗死、南郡太守李粛は逃亡して処刑された。太常馮緄が車騎将軍として討伐に赴き、応奉らの協力で荊州を平定した。
- 馮緄は功を応奉に譲ったが、賄賂を得られなかった宦官が監軍張敞を使嗾して誣告させ、罷免に追い込んだ。
朱穆・黄瓊の諫言
- 尚書に復帰した朱穆は、宦官が国政を壟断する弊害を上疏し、さらに桓帝に直接進言したが聞き入れられず、憤懣のうちに背中に腫物を病んで死去した。清廉な生涯が評価され追贈された。
- 前太尉黄瓊も病床で長文の遺疏を認め、梁氏一門と宦官の専横、李固・杜喬の冤死、李雲・杜衆の悲劇を挙げて桓帝を諫めたが、桓帝はなお宦官を重用し続けた。黄瓊の死後、忠侯を追諡された。
未詳の弔問者
- 黄瓊の葬儀に六、七千人が参列する中、一人の書生が異様な作法で弔い、名も告げずに去った。次回、その正体が明かされる。
評語
後漢の循吏は多かったが、君主が暗愚で宦官に耳目を塞がれていたため、三公が善政を敷いても長続きしなかった。劉寵の清廉、段熲・皇甫規・馮緄の功績、朱穆・黄瓊の諫死も結局は生かされず、党錮の禍で正士が一掃されるに至る東漢衰亡の予兆が、すでにこの回に表れている。