後漢演義第四十六回 馬賢は姑射山で戦没し、張綱は広陵の賊を馳せ赴き懐柔する (馬賢戰歿姑射山 張綱馳撫廣陵賊)
張逵の讒言と誅殺
- 中常侍張逵は帝の寵を得ようと画策する宦官の一人。曹騰・孟賁ら他の宦官が順帝に重用されるのを妬み、山陽君宋娥や黄龍侯楊佗ら九侯と結び、大将軍梁商と曹騰・孟賁が廃立を謀っていると偽って訴えた。
- 順帝は「あり得ない、お前たちの嫉妬だろう」と一蹴。張逵は逆上し、偽の詔をでっち上げて曹騰・孟賁を投獄させたが露見し、市中で処刑された。宋娥は爵位剥奪、楊佗ら九侯は領地を削られ本国送還となった。曹騰・孟賁は復職。
- 閹党十九侯のうち、争いに関わらなかった馬国・陳予・苗光の三人のみ爵位を全うできた。
涼州の羌・匈奴をめぐる攻防
- 隴西方面の雑羌は麻奴の死後、弟の犀苦が跡を継いで再び離反、鍾羌も呼応。護羌校尉馬賢がこれを撃破し都郷侯に封じられるが、その後任は韓皓、馬続と交代。
- 鍾羌の良封らが再び反乱を起こし隴西・漢陽を侵すと、馬賢が再度起用され、馬続の後を受けて良封を撃破・討ち取り、鍾羌支族の且昌らも降伏させた。
- 度遼将軍となった馬続の在任中、南匈奴の句龍王吾斯・車紐らが反乱し美稷を包囲、朔方・代郡の長吏を殺害。馬続は梁並・王元と連合して撃破するが、吾斯・車紐は離合を繰り返し騒乱が続いた。
- 南単於休利は謝罪するも、後任の五原太守陳龜が単于に自殺を強いるなど強硬策を取り、かえって胡人の離反を招いて更迭・免官された。
- 大将軍梁商は武力一辺倒を戒め、馬続に堅固な守りと恩賞による招撫を勧める上表・書簡を送った(原文中の上表・書簡は趣旨のみ紹介。武力での皆殺しは不可能であり、恩賞・招撫による懐柔を説く内容)。
- 馬続はこれに従い招撫に努め、右賢王部の抑鞮ら一万三千口が投降。しかし吾斯・車紐はなお抵抗し、車紐を単于に擁立して烏桓・羌胡を糾合、京兆の虎牙営を破り上郡都尉らを殺害するなど四州を荒らした。
- 朝廷は防衛線を後退させる方針を取ったが、事態が切迫すると中郎将張耽を派遣。張耽は馬邑で虜兵を大破し車紐らを降伏させたが、吾斯は逃走。張耽・馬続は追撃して天山に追い詰め、烏桓の首領らを討ち被虜の人畜を奪還、吾斯は再度逃走し虜勢は衰えた。
馬賢の姑射山での戦死
- 北方の虜が下火になる一方、西の羌が再燃。且昌羌ら投降羌以外の残党は馬賢に撃退されて隴右は一時平穏となったが、燒当羌の那離らが再叛し、これも馬賢が誅殺。
- 馬賢は弘農太守に転じ、後任の并州・涼州刺史来機・劉秉は梁商から「威を分けて怒りすぎるな」と忠告されたが、着任後は羌に対し苛烈な統治を行い、且凍・傅難・鍾羌らが再び反乱、金城・湟中を攻め三輔にまで侵入した。
- 朝廷は来機・劉秉を召還し、馬賢を征西将軍に任じ十万の兵で漢陽に駐屯させた。梁商は馬賢の老齢を懸念し宋漢への交代を求めたが順帝は聞き入れず。馬賢は進軍を渋り長く逗留した。
- 武都太守馬融は上書し、馬賢が進軍を怠り、逆に陣中で幕舎を張り美食や妻妾を侍らせるなど古の名将(呉起)とは正反対の贅沢な軍旅をしていると諫めたが、上書は握りつぶされた。安定の皇甫規も馬賢の敗北を予見して上申したが、これも聞き入れられなかった。
- 永和六年正月、且凍羌が武都を侵し隴関を焼くと、馬賢はやむなく二子と数千の兵を率いて射姑山に出陣。羌の伏兵に誘い込まれ包囲され、父子ともに奮戦の末に討死した。
- 順帝は嘆息し馬賢の家に布や穀物を賜り、孫を舞陽亭侯に封じ、督軍を送って戦没者を慰撫させた。
- 敗戦後、東西の羌(安定・北地・上郡・西河一帯の東羌、隴西・漢陽・金城一帯の西羌)が連合し勢いを増す。中でも鞏唐羌が漢軍の敗北に乗じて隴西から三輔まで攻め入り、園陵を焼き関中を荒らした。廧陽令任頵は迎撃するも寡兵で戦死。
- 武威太守趙衝は鞏唐羌を撃破し首級四百・降兵二千を得て、河西四郡の軍を統括する権限を得た。
- 安定でも被害が出たが、功曹に抜擢された皇甫規が甲士八百を率いて自ら先陣を切って叛羌を撃退、安定は解囲された。皇甫規は上計掾に挙げられ都に赴く。
皇甫規の上疏
- 皇甫規は自ら軍事への起用を願い出る上疏を奉る。要旨は、辺境の将が招撫を怠り、勝てば戦功を偽って誇張し、敗れれば隠蔽してきたこと、兵士は酷使され困窮する一方、将は私腹を肥やしていること、そして自分に二郡の屯田兵五千を預ければ護羌校尉趙衝と連携して事態を収拾できると自薦するもの。
- しかし順帝は皇甫規が官位軽く経験浅いとして用いず、皇甫規は帰郷した。
- その後、鞏唐羌が北地を再侵、北地太守賈福と趙衝の連合軍も敗退。羌はさらに武威を侵し、朝廷は安定・北地の民を扶風・馮翊に避難させ、執金吾張喬に三輔を守らせた。護羌校尉趙衝が罕種羌五千余戸を招降し、燒何・燒当羌らを連破したことで羌の脅威はようやく和らいだ。
梁商の死と梁冀の台頭
- 大将軍梁商が病篤くなり、順帝の見舞いに対して尚書周挙の起用を遺言。子らには質素な葬儀を求める遺言を残して没した。順帝は遺言に反して盛大な葬儀を行い、忠侯と諡した。
- 長子梁冀が乗氏侯を継ぎ大将軍職も継承、弟の梁不疑は河南尹となった。周挙は諫議大夫に進んだ。
- 梁冀は父と異なり貪婪驕慢で、正人君子を容れなかった。
李固の荊州平定と張綱の左遷
- 荊州で盗賊が起こると李固が刺史として派遣され、寛大な政策で賊を帰順させ全州を鎮めた。
- しかし南陽太守高賜らが不正の発覚を恐れ梁冀に賄賂を贈り、李固への圧力を求めた。李固がこれに屈しないでいると、梁冀は李固を泰山太守に左遷。李固は泰山でも屯兵を農に返し、少数の兵で賊を招撫し一年足らずで平定した。
八使の派遣と張綱の弾劾
- 順帝は永和七年を漢安元年と改元し大赦、杜喬・周挙・張綱ら八名の侍中・光禄大夫を各州郡に巡行させ、貪官汚吏を摘発させた。
- 張綱は最も若年ながら気節高く、都を出てすぐ雒陽都亭で車輪を地に埋め「豺狼道に当る、なんぞ狐狸を問わん」と言い放ち、都に引き返して梁冀・梁不疑を弾劾する上疏を提出した。内容は外戚の恩を受けながら貪欲を恣にする梁冀兄弟の罪十五ヶ条を糾弾するもの(史書にも詳細は伝わらず、本書も略す)。
- 梁皇后の威勢の下で朝臣は震え上がったが、順帝は張綱を咎めず、しかし上奏を放置した。梁冀はこれを恨み、機会を狙う。
張綱の広陵統治と死
- 広陵の賊張嬰が数万を集め徐揚間で猛威を振るい、歴代太守は討伐を避けていた。梁冀は張綱を広陵太守に推挙し、遠ざけようとした。
- 張綱は単身で賊塁に赴き、誠意をもって張嬰を説得。「二千石の暴虐にも非があるが、お前たちの行動も義に外れる。降れば栄爵を、抗えば大軍に滅ぼされるのみ」と道理を説いた。
- 張嬰は感涙し帰順を決意、翌日一万余の部衆とともに投降。張綱は宴を設けてこれを迎え、居宅・田畑まで世話をし、子弟を郡吏に登用するなど手厚く処遇し、南方は平穏になった。
- 梁冀の妨害で論功行賞は見送られたが、順帝は張綱を重んじて昇進させようとした。張嬰らが留任を願い出たため、そのまま広陵に留まった。
- 在任一年で病を得て三十六歳で没す。百姓は老幼を問わず府に集まって哭き、張嬰ら五百余人も喪服を着て柩を武陽に送り、自ら土を運んで墓を築いた。朝廷も哀悼し、子の張続を郎中に任じ銭百万を賜った。
評語
- 兵は常用すべからず、将は久任すべからず。馬賢は辺境防備で数々の功を立てた名将だったが、功が多いほど驕り、位が高いほど怠りが生じるもので、馬融が指摘した通り陣中での奢侈がその破滅を招いた。姑射山での父子討死は不幸ではなく必然であった。
- 張綱は車輪を埋めて梁冀を弾劾し、その正論は千古に伝わる。広陵に左遷されても単身で賊を説き伏せ、一人も殺さず万余の賊を帰順させた。梁冀は賊を利用して張綱を陥れようとしたが、逆に張綱の功績が梁冀の恥となった。天下の事は結局人の為しように依るということが分かる。
- 惜しむらくは、忠賢な張綱が長命を得られなかったこと。後の李固・杜喬の非業の死を思えば、張綱の早世はむしろ幸いだったとも言える。名臣の名を全うできたのは、必ずしも寿命の長短によらないのである。