後漢演義第四十七回 幼い衝帝を立て母后が摂政し、少主を毒殺し元舅が横行する (立衝人母后攝政 毒少主元舅橫行)
順帝時代の良吏たち
- 洛陽令任峻は人材登用に長け、洛陽をよく治めた。
- 冀州刺史蘇章は旧友の清河太守が汚職をしていることを知り、私的な宴席では旧交を温めつつ「明日は公務として弾劾する」と告げ、実際に翌日弾劾して罷免させた。公私を厳格に分けたこの姿勢に州吏は畏服した。
- 膠東相呉祐は寛仁な政治を行い、部下の嗇夫孫性が父のために私的に民から金を取った事件でも、孫性の孝心を汲んで穏便に収め、民衆に慕われた。訴訟でもまず自省し、和解を重んじて牢獄を空にした。
巡行の八使と梁冀の壁
- 巡行に出た杜喬・周挙ら八使(八俊)は権貴や宦官党羽を弾劾する上奏を次々に行ったが、宮廷が小人に牛耳られ黙殺され続けた。侍御史種暠の追及でようやく数人が退けられた。
- 杜喬は泰山太守李固の治績を天下第一と評価し推挙、李固は将作大匠、さらに大司農に昇進。
- 三公の人事は頻繁に入れ替わるが、梁冀の専横下では唯々諾々とするのみ。前太尉王龔の子王暢だけは父の遺風を受け継ぎ公正だった。
北辺・西辺の平定
- 漢安二年、匈奴句龍王吾斯が并州を侵すと、王暢の推薦で中郎将となった馬寔がこれを刺殺させ、烏桓の残党七十余万口を降伏させた。
- 南匈奴守義王兜楼儲が単于に冊立され本国に戻り、南庭は漢に恭順的になった。
- 西方では護羌校尉趙衝が燒何・燒当諸羌を破り三万余戸を降したが、部下の馬玄の裏切りで一部が再叛。趙衝は追撃中に伏兵に遭い戦死し、子の趙義が義陽亭侯に封じられた。梁並の招撫もあり隴右は概ね平穏となった。
衝帝の即位と早世
- 漢安三年、順帝は後継未定のまま壮年に達していたが、虞美人が生んだ二歳の子炳を太子に立て、建康元年と改元。
- 杜喬が太子太傅、種暠が光禄大夫として承光宮で太子を監護。中常侍高梵が詔書なしに太子を迎えに来た際、種暠は剣を抜いて阻止し、詔書の携行を要求。この気骨により順帝の信任を得た。
- その年八月、順帝が崩御(三十歳、在位十九年)。太子炳(衝帝)が即位し、梁太后が臨朝聴政。趙峻が太傅、李固が太尉に。
- 皇甫規が上奏し、宦官・外戚の専横(特に梁冀・梁不疑)を批判、彼らに謙譲と自制を求めるとともに、佞臣の一掃を訴えた(要旨のみ)。梁冀はこれを恨み、皇甫規を降格させた。皇甫規はやがて病と称して辞職し、隠棲した。
- 揚州・徐州で盗賊が再燃(范容・馬勉・張嬰ら)。折しも衝帝が三歳で急死。梁太后は動揺し秘密裏に処理しようとしたが、太尉李固は「秦の胡亥・趙高の故事に倣うな」と諫め、即日発喪させた。
質帝の擁立と毒殺
- 衝帝に嗣子なく、清河王劉蒜(年長)と渤海王の子劉纘(八歳)が候補に。李固は年長で見識ある君主を立てるよう梁冀に進言したが、梁冀はこれを聞かず、梁太后と諮って劉纘を迎立(質帝)。劉蒜は本国に帰された。
- 李固は前帝(衝帝)の合葬による費用節減を進言し、梁太后はこれに従った(諡は懐陵)。
- 揚徐の乱は騰撫の派遣により平定(馬勉・徐鳳・張嬰・華孟らを討伐)。
- 質帝は幼くして聡明で、朝議の席で梁冀を面と向かって「跋扈将軍」と評した。これを恨んだ梁冀は毒を仕込んだ餅を献上させ、質帝は腹痛を訴えて悶死した。李固が「水を飲ませてよいか」と問うと梁冀は「吐くから駄目」と制止し、質帝はそのまま絶命した。
- 李固は梁太后に真相究明を求めたが曖昧にされ、梁冀にも面会できなかった。
桓帝の擁立
- 李固は胡広・趙戒と連名で梁冀に書を送り、清河王蒜のような年長・徳望ある者を立てるべきと説いた(霍光が昌邑王を廃した故事を引用)。
- 三公会議では李固・胡広・趙戒・杜喬が清河王蒜の擁立を主張したが梁冀は答えず。
- 梁太后には妹があり、蠡吾侯劉志(平原王翼の子)を婿にと考えていたところに質帝の急死が重なり、梁冀は劉志を立てて外戚の地位を固めようと画策。中常侍曹騰らが「清河王は厳明であり、擁立すれば将軍が禍を受ける。蠡吾侯なら安泰」と入れ知恵し、梁冀は決意する。
- 翌朝、梁冀は激しい剣幕で蠡吾侯擁立を主張、胡広ら公卿は畏縮して同意したが、李固・杜喬は反対を貫いた。梁冀は「散会!」と一喝して退出。李固はなお梁冀に翻意を求める書を送るが黙殺され、梁太后に働きかけて李固を策免させた上、蠡吾侯志を迎立(桓帝)。
- 質帝は静陵に葬られ、桓帝の父祖(河間王開・蠡吾侯翼)が追尊された。桓帝の生母匽氏も博園貴人に。
桓帝初期の政治
- 建和と改元。地震・日食が続く中、大将軍梁冀の擁立功績への論功として食邑一万三千戸が加増され、弟の不疑・蒙、子の清らも侯に封ぜられた。
- 太尉杜喬はこの過剰な封賞に反対する上疏を行うが聞き入れられず。杜喬は以前から梁冀の不興を買っており(金蛇の一件、弔問拒否、桓帝擁立反対など)、さらに梁冀の妹(桓帝の皇后)の婚礼を旧例に則って質素にすべきと主張したことで梁冀の怒りを買った。
- 都で地震が起きると梁冀はこれを口実に杜喬を策免。趙戒・袁湯・胡広ら梁冀に迎合する者が三公に取り立てられた。李固・杜喬のみが梁氏に与せず、孤立していく。
評語
- 順帝崩御後、子の炳(衝帝)が幼くして立ち、梁皇后が臨朝したこと自体は先例に倣うものだが、専ら兄梁冀を信任し重用したのは誤りである。皇甫規が諫めたにもかかわらず、肉親の情に流されて国家の大局を顧みなかった。
- 衝帝夭折の際、年長の君主を立てず梁冀の言に従って劉纘(質帝)を立てたのは、権力保持への欲が明らかである。質帝が毒殺された際も、梁太后が真相を究明しなかったのは、春秋の大義に照らせば同罪と言うべきである。
- さらに妹を桓帝に嫁がせ、桓帝擁立でも李固・杜喬の諫言を退けた。梁冀が悪の根源であるとしても、それを許したのは梁太后である。婦人の情に流された政治が、結局は大局を誤らせたのだと知るべきである。