後漢演義第四十五回 李固を推し対策で首席に選ばれ、祝良を挙げ武を解いて群蛮を平定する (進李固對策膺首選 舉祝良解甲定群蠻)

左雄の諫言と孝廉制度の改革

  • 尚書令左雄は、宋娥への封号は撤回されないまま自らの諫言も効を奏さなかったが、名声は高まった。孝廉の選挙基準を年齢四十歳以上とし、特別に優れた人物のみ例外とする制度改革を提案し、順帝はこれを採用。基準に合わない挙人徐淑を左雄が論駁するなど厳格に運用した。
  • 郎顗は災異を論じ黄瓊・李固を推薦。順帝は各地の異変を受け、士人に策問を行った。

李固の対策と登用

  • 対策では南鄭の李固の文章が第一とされた。李固は乳母への封爵の非、宦官の子弟の官職独占、尚書の職責の重要性などを論じ、宦官の権限縮小を訴えた。順帝はこれを評価し、乳母宋娥を宮外に退け、宦官らを戒めて李固を議郎に任じた。
  • 同時に馬融・張衡らも評価されるが、宦官の勢力により長く要職に就けなかった。張衡は渾天儀・地動儀の考案者として知られる。
  • 十九侯の孫程は騎都尉から奉車都尉に進み病没、宦官の養子による爵位継承が制度化された。御史張綱は宦官偏重の政治を批判する上奏を行うが取り上げられなかった。

梁商の大将軍就任と梁冀の悪行

  • 梁商は固辞の末、大将軍に就任。李固・周挙らを掾属に迎え、李固は梁商に外戚の権勢抑制や後継者確保などを進言する上書を送るが、優柔な梁商は十分に用いなかった。
  • 梁商の子梁冀は素行不良で、河南尹在任中に自分の悪評を告げた洛陽令呂放を暗殺させ、無関係の人々百余人を巻き込む冤罪事件を起こした。

南方の反乱平定

  • 象林の蛮族区憐らの反乱に対し、群臣は大軍動員を主張したが、李固は輸送の困難や被害の大きさを理由に反対し、代わりに祝良・張喬を刺史・太守として派遣する策を提言。両者は現地で降伏工作を行い、反乱を鎮めた。
  • 左雄は司隷校尉に転じたが、推薦した馮直が贓罪歴を理由に周挙から弾劾され、左雄と周挙の間で一悶着あったのち、互いに非を認め和解した。宦官の中では大長秋良賀が清廉で私的な推薦を行わないことで知られた。

評語

  • 順帝は李固を対策で首位に選び、乳母を退け宦官を戒めるなど、一時は明君の資質を見せたが、群小の欺瞞には抗しきれなかった。
  • 梁商は謙譲の徳で知られたが、子の梁冀を正しく導けず、結局は優柔さの限界を露呈した。李固の諫言も十分に活かされなかった。祝良・張喬の蛮族平定の成功は李固の献策によるところが大きい。