後漢演義第四十三回 大喪を秘し宮に還り幼主を立て、元舅を誅し殿に登り濫りに侯に封ずる (秘大喪還宮立幼主 誅元舅登殿濫封侯)

楊震死後の迫害と太子廃立

  • 楊震の死後も樊豊らは弘農太守に命じて葬送を妨害し、遺子たちを苦役に就かせた。
  • 野王君王聖と大長秋江京は樊豊らと結び、太子劉保の乳母王男・厨監邴吉を誣告して死刑に処し、閻皇后と共謀して太子を廃そうと画策する。閻后はかつて太子の生母李氏を毒殺していた。
  • 太僕来歴・太常桓焉・廷尉張皓らが反対したが、安帝は太子保を廃して済陰王とした。来歴らは鴻都門で撤回を求めたが、安帝は詔で叱責し、来歴も官職と国租を削られた。

安帝の急死と閻后の秘喪

  • 安帝は南巡の途上、宛城で発病し、葉県で崩御(在位十九年、三十二歳)。
  • 閻后・閻顕兄弟・江京・樊豊らは喪を秘し、遺体を車に乗せたまま都に運び、北郷侯懿を新帝に擁立、閻后は皇太后となり閻顕が実権を握った。
  • 閻顕は耿宝・王聖・樊豊らを弾劾させ、樊豊・謝惲・周広は獄死、耿宝は自尽、王聖母娘は雁門に流された。閻氏一族は要職を独占した。

孫程らによる政変と順帝の即位

  • 幼主懿が病没すると、中常侍孫程は江京・閻顕らを排除して済陰王を立てる計画を進め、十八人の宦官と共に江京・劉安・陳達を殺害、李閏を脅して従わせ、済陰王保を皇帝(順帝)に擁立した。
  • 閻顕は抵抗を試みたが、尚書郭鎮に衛尉閻景が討たれるなど失敗し、閻顕兄弟は捕らえられ処刑された。閻太后は璽綬を奪われ、離宮に遷された。
  • 孫程ら十九人はそれぞれ列侯に封じられ(十九侯)、宦官の権勢は絶頂に達した。楊震の冤罪も雪がれ、遺骸は改葬されて祭祀を受けた。

評語

  • 閻后は太子の生母を殺し、さらにその子まで廃したことで、自ら衆怒を招き族滅の因を作った。北郷侯擁立という私意もまた失敗の因である。
  • 閻氏を誅した功が三公ではなく十九人の宦官の手によったことは、外戚専横以上の禍根を残した。幸い順帝が聡明であったため禍が即座には現れなかったが、後世への遺産は憂うべきものである。