後漢演義第四十二回 班長史は車師国を打ち破り、楊太尉は夕陽亭で死に就く (班長史搗破車師國 楊太尉就死夕陽亭)

陳忠の諫言と隠士たち

  • 尚書僕射陳忠は、伯榮母娘の祭陵での驕慢な振る舞いが天変地異を招いていると上疏し、王聖への寵愛を戒めたが、安帝はかえって王聖を野王君に封じた。
  • 陳忠は賢才の登用を進言し、鄧太后への直言で罰せられていた杜根や成翊世を復権させるなど尽力した。
  • 汝南の薛包は継母に虐げられながらも孝を尽くし、財産分与でも自ら不利な取り分を選び称賛された。同郷の黄憲は徳望高く、荀淑・郭泰らに評価されたが仕官を望まず若くして没した。周燮・馮良ら隠士も朝廷の招聘に応じず節を守った。

班勇の西域平定

  • 北匈奴の呼衍王が車師などを侵し、西域経営をめぐり敦煌太守張璫が上中下三策を提言。尚書僕射陳忠は中策を支持し、班勇を西域長史として派遣することが決まった。
  • 班勇は鄯善・亀茲・姑墨・温宿などを懐柔し、車師前庭を奪還。さらに延光四年、車師後王軍就を討伐し、これを斬って首級を都に送った。西域諸国は再び漢に帰順した。

楊震の孤立と失脚

  • 楊震は太尉に昇進するが、耿宝や閻顕の私的な官吏登用の依頼を拒み、恨みを買う。乳母王聖の邸宅造営に濫費が費やされる中、楊震は財政窮乏と宦官・外戚の専横を諫める上疏を重ねて行うが、安帝には届かなかった。
  • 地震などの災異が続く中でも楊震は諫言を止めず、河間の趙騰が上書して処刑された際にも助命を訴えたが聞き入れられなかった。
  • 安帝の東巡中、宦官樊豊らが公費を流用して邸宅を修築していたことが発覚。樊豊らは先手を打って楊震が趙騰を庇い謀反の意図があると讒言し、安帝はこれを信じて楊震の太尉印綬を取り上げた。
  • その後、楊震は郷里への追放を命じられ、道中の夕陽亭で「奸臣を除けず、姦女の乱を禁じ得なかった」と嘆き、質素な葬儀を遺言して服毒自殺した。享年七十余歳。

評語

  • 西域は班超・班勇父子の巧みな統治により夷を以て夷を制する策が功を奏した。安内の困難は攘外に勝るのに、安帝は楊震のような賢臣を用いず、逆に群小を重んじて綱紀を乱した。
  • 楊震は関西の名士として身の処し方を誤らなかったが、讒言による陥穽から自ら抜け出せなかった点は惜しまれる。薛包・黄憲・周燮・馮良らの隠士の高潔さとは対照的である。