後漢演義第四十一回 鄧氏一族を退け父子ともに食を絶ち、甘陵を祭り母娘そろって威を揚げる (黜鄧宗父子同絕粒 祭甘陵母女並揚威)
鄧太后の崩御と安帝の親政
- 永寧二年三月、鄧太后が崩じ、諡は和熹皇后、和帝と合葬された。安帝がようやく親政を始める。
- 鄧太后は臨朝中、水害・旱害・異民族の侵攻・盗賊の蜂起が相次いだが、寝食を忘れて政務にあたり、廃后陰氏の一族を赦免するなど寛仁な統治で世を保ったと評される。
- 平望侯劉穰が太后の頌徳文を奏上するなど称揚の声もあったが、太后が長く政を返さず鄧氏外戚を厚遇し過ぎた点は後に禍根となる。
生父母への追号と鄧氏一族の粛清
- 群臣が安帝の実父清河孝王・実母左氏らへの尊号追贈を上奏し、安帝は許可。孝徳皇・孝徳后の号を追贈し、甘陵の造営、宋氏一族への封爵も行った。
- 鄧太后の下で宋貴人を死に追いやった中常侍蔡倫は、罪を追及されて服毒自殺。蔡倫は製紙法の改良者として知られ、校書の功もあったが、この一件で名を汚した。
- 乳母王聖や中常侍江京・李閏らが安帝に取り入り、鄧氏排斥の陰謀を進める。平原王の継嗣問題や過去の恨みを利用し、鄧悝・鄧弘・鄧閶らが平原王擁立を謀ったと誣告。
- 安帝はこれを信じ、鄧氏一族の爵位剥奪・処罰を命令。鄧広徳・鄧忠らは自尽を強いられ、鄧騭は無実を訴える術もなく絶食して死去、子の鄧鳳も殉じた。鄧豹・鄧遵・鄧暢らも服毒。大司農朱寵は棺を担いで上書し鄧氏の無実を訴えたが、逆に免官された。
- 世論の同情もあり、安帝は鄧氏の遺骸を洛陽に改葬させ祭祀を行わせたが、鄧氏はすでに没落していた。
外戚・宦官の専横と楊震の諫言
- 鄧氏排斥後、安帝は永寧二年を建光元年と改元し大赦。江京・李閏を列侯とし、閻皇后の兄弟を要職に就け、宦官樊豊・劉安・陳達らも権勢を振るう。乳母王聖とその娘伯榮も宮中に出入りし賄賂を公然と受けた。
- 司徒楊震は再三上疏し、王聖・伯榮母娘の専横と婦寺の政治介入を諫めたが、安帝は聞き入れなかった。
- 泗水王の一族劉瓌は伯榮と通じて故朝陽侯の爵位を襲封するに至り、楊震は不当な封爵として再度諫めたが黙殺された。
辺境の異変
- 燒当羌の麻奴は漢に帰順せず、護羌校尉馬賢の討伐でようやく降伏。鮮卑の侵入で雲中太守成厳らが戦死するなど辺境の被害が続いたが、安帝は対応せず享楽に耽った。
- 高句驪王宮が遼東に侵攻し太守蔡諷が戦死するなど東方も動揺したが、扶余の援軍もあって撃退。宮の死後、子の遂成が漢に降伏を申し出て一時平穏となった。
- 幽州刺史馮煥・遼東太守らが偽の詔書により誣殺されかける事件も起き、安帝の統治の乱れが露呈する。
王聖母娘の甘陵祭祀と驕慢
- 安帝の嫡母耿姫が甘陵に住むため、王聖と伯榮が使者として派遣される。沿道の官吏を跪拝させ、賄賂を集めるなど極めて驕慢な振る舞いを見せ、清河嗣王延平や河間王らまでもが車前で拝跪した。
評語
- 鄧氏一族は祖先の教えを守り驕らなかったにもかかわらず、婦人・宦官の讒言で一族七人が命を落とした。まして竇憲・耿宝のような者はなおさら滅びを免れない。
- 乳母王聖と娘の伯榮が権勢をほしいままにし、外戚・宦官と結託して国政を乱した罪は重い。安帝がこれを咎めず、逆に園陵祭祀を任せたことは天下の恥である。