後漢演義第四十回 百僚に反論し班勇が辺境の事を陳べ、四知を畏れ楊震が贈られた金を退ける (駁百僚班勇陳邊事 畏四知楊震卻遺金)
虞詡の伏兵と武都の再興
- 淺水灘で待ち伏せた官軍わずか四、五百名が夜襲を仕掛け、羌軍を混乱させて大勝した。
- 虞詡は帰城後、営塁を築き、流民を招き戻し、貧民を救済し、灌漑・開墾を進めた結果、三年で物価が下がり戸口が四万余に増え、郡は豊かに安定した。
羌乱の終息
- 鄧太后は従兄・鄧遵を度遼将軍とし、南単于檀らと合流して零昌を撃破。
- 任尚も丁奚城を攻めて零昌の妻子を捕らえ、買収した羌人に季貢を暗殺させた。
- 益州に流れた残党も張喬により鎮撫され、任尚はさらに号封を使って零昌を討たせ、狼莫との激戦(富平河畔)で大勝、最終的に雕何による狼莫暗殺で羌乱は終息し隴右は平定された。
- しかし任尚は鄧遵との功争いから、虚偽報告と収賄を告発され、鄧太后の信任を得た鄧遵の言により処刑された(作中で賞罰の理不尽さが指摘される)。
- 十余年に及ぶ羌乱で膨大な軍費と兵士の死者を出し、涼州・并州は疲弊し、国家財政も底を突いたと総括される。
皇太子保の冊立と閻皇后
- 元初七年、後宮李氏の子・保が皇太子となる(永寧と改元)。閻姫が鄧太后の縁者として皇后となり、嫉妬から李氏を鴆殺していた経緯が語られる。
班勇の西域論議
- 敦煌太守曹宗が北匈奴討伐と西域回復を上奏。西域が北匈奴の支配下に戻り侵攻が続いていた背景が説明される。
- 鄧太后は班超の子・班勇を召して意見を求めた。班勇は西域経営の歴史(武帝以来の匈奴分断策、光武・明帝期の変遷)を踏まえ、西域放棄の危険と、副校尉・長史の再設置による段階的な安定策を上奏。
- 尚書・長楽衛尉鐔顕・廷尉綦母参・司隷校尉崔拠・太尉掾毛軫らが反論したが、班勇はいずれも論破し、鄧太后は西域副校尉の設置を許可した。
鄧氏一族のその後
- 鄧騭ら兄弟は母の喪の後、太后から復職を勧められても固辞し、朝請のみに留まった。鄧弘の死後、太后は厚遇を辞退の意を汲んで簡素に処遇した。
- 鄧悝・鄧閶も相次いで没し、いずれも薄葬を遺言した。鄧騭の子・鄧鳳は任尚から賄賂を受けたことが発覚し、自ら申告して連座を免れた。
- 太后は宗室・鄧氏の子弟を集めて学問所を開き、経書を学ばせ、詔で貴戚の風紀刷新を訓戒した。
楊敞・張俊事件
- 尚書郎張俊の私信が発覚し、司空袁敞は監督不行き届きで罷免され憤死。張俊も死罪となったが、鄧太后は文才を惜しんで恩赦した。
楊震の登場
- 楊震(字伯起)は経学に通じ「関西孔子」と称された人物。少年期の黄雀を助けた逸話や、講堂に鱣魚が飛来し三公への昇進を予兆したという逸話が語られる。
- 東莱太守赴任の途中、かつて推挙した王密が夜間に金を贈ろうとした際、「天知る、地知る、汝知る、我知る」との言葉でこれを拒んだ(四知の故事)。
- 清廉を貫き、子孫に財産でなく清廉の評判を遺すことを信条とし、元初四年に大司農、永寧元年に司徒となった。
鄧太后の崩御
- 郎中杜根や平原郡吏成翊世が太后に政権返上を求めて処罰され、越騎校尉鄧康も引退を勧めて怒りを買い罷免された。
- 永寧二年、鄧太后は病床にありながら政務を続けたが、まもなく四十一歳で崩御した(臨朝十八年)。
評語
- 班超の遺した西域経営の功績を軽々しく放棄したことは惜しまれるが、班勇は父の志を継いで正論を述べ、後に実際に西域経営を回復させた。
- 楊震の「四知」の清廉は子孫にまで及ぶ福を残した好例として称えられる。富貴に目を奪われ子孫に禍を遺す当世への批判として語られる。