後漢演義第三十九回 女誡を作り遺編で範を示し、羌虜を拒み竈を増やす奇策を称えられる (作女誡遺編示範 拒羌虜增灶稱奇)
新野君の死と鄧氏の辞退
- 鄧太后の母・新野君が病没。太后は篤く喪に服し、丁重に葬った。
- 鄧騭ら兄弟は褒賞を辞退し退位・服喪を願い出たが、班昭(曹大家)が上表し、過度な謙譲はかえって名を損なうと諫めたため、太后は喪の間だけ退官を許した。
班昭の『漢書』完成と『女誡』
- 班昭は『漢書』の続修をほぼ完成させ、馬融の従孫・馬続もその校訂に加わった。
- 班昭は『女誡』七篇(卑弱・夫婦・敬慎・婦行・専心・曲従・和叔妹)を著し、自序で謙虚な思いと娘たちへの教えを述べた。この書は後世「女四書」の一つとして広く伝わった。
- 班昭没後(享年七十余)、子婦の丁氏が遺文を編纂し、鄧太后も喪に服して手厚く弔った。
節婦たちの逸話
- 姜詩の妻・龐氏は姑への孝養が篤く、誤解で追い出されても献身を続け、最後には母子で復縁して評判となった。
- 楽羊子の妻は夫の拾得した金を諫めて捨てさせ、学業半ばで帰った夫を機織りの喩えで再び学問へ送り出した。盗賊に貞節を脅かされた際には自ら命を絶って節を守った。
- 陳文矩の後妻・穆姜は継子たちに実子以上の愛情を注ぎ、当初は疎まれたが、やがて継子たちが改心して孝行するようになった。
羌乱の再燃と各地の敗戦
- 鄧太后が母の喪を終え、洛陽の獄で冤罪を調べるなど善政を続ける一方、辺境では漢中太守鄭勤の戦死、任仁の敗戦とその処刑など、羌との戦いは苦戦が続いた。
- 河内へ羌が侵入し民が避難、四郡(隴西・安定・北地・上郡)の治所移転で百姓に大きな犠牲が出た(役人による強制移住の混乱が描かれる)。
- 任尚が上党で羌を撃退し、漢陽の賊・杜琦は刺客に討たれたが、弟の季貢は滇零の下へ逃れた。滇零病死後、子の零昌が幼くして跡を継ぎ、季貢が将軍として丁奚城を守った。
龐参・虞詡らの奮闘
- 号多という羌豪が現れて武都・漢中を荒らしたが、板楯蛮の助力と龐参の懐柔策により降伏。
- 司馬鈞・龐参らの遠征では仲光ら三将が号令違反で敗死し、鈞も救援せず、季貢の反撃で敗走。責任者は投獄され、司馬鈞は獄中で自殺した。
- 度遼将軍梁慬も辺民の救出に絡み専断を咎められ投獄されたが、馬融の弁護で龐参ともども赦された。
虞詡の武都平定
- 虞詡は懐令のとき任尚に騎兵増強策(歩兵の代わりに馬を買い機動力を高める)を献策し採用され、丁奚城攻略で戦果を挙げた。
- 虞詡は武都太守に抜擢され、赴任途上で羌の待ち伏せに遭うも、偽装退却で油断を誘って通過し、日ごとに竈の数を増やす計略(孫臏の減竈の逆)で敵を欺いて無事に赴任。
- 郡兵三千足らずで一万の羌軍による赤亭包囲に対し、弱兵で誘い出し、弩の威力を偽って油断させてから強弓で迎撃、さらに軍装を替えて城内を周回する疑兵の計で敵を混乱させ、夜逃げする羌軍を水際で待ち伏せる策を講じた。
評語
- 本回は班昭の事績と『女誡』、および姜・楽・陳三婦の逸話を併せて記し、『列女伝』を補う趣旨で女性の模範を示したものである。
- 虞詡の増竈の計は千古の奇策とされ、永初以来十余年に及ぶ羌乱の中で稀有な知将として名声を高めた。