後漢演義第三十八回 勇猛な梁慬は三戦して功を著し、智略の虞詡は一策で賊を平げる (勇梁慬三戰著功 智虞詡一行平賊)
鄧騭・任尚の羌討伐と苦戦
- 鄧騭・任尚が漢陽に駐屯して兵馬を待つ間、先遣隊が鐘羌に襲われ大敗した。
- 梁慬が張掖・姑臧で羌の大軍を破り、投降者を故地へ帰した。
- 各地で地震・水害・風雹が相次ぎ、太尉徐防・司農尹勤が引責辞職(三公が災異で罷免される最初の例)。張禹が太尉、周章が司空に就任。
周章の陰謀と自殺
- 宦官鄭衆・尚方令蔡倫が権勢を振るう中、司空周章は諫言が用いられないことに憤り、鄧騭兄弟と鄭衆・蔡倫の誅殺、太后・嗣皇の廃位と平原王勝の擁立を密謀したが、事前に漏れて服毒自殺した。
飢饉と鄧太后の親裁
- 樊准・呂倉が冀・兗二州を巡察し、被災民を豊作地へ移す策を上奏、鄧太后はこれを採用。
- 大旱の折、鄧太后自ら若盧獄に赴いて冤罪の囚人を発見し釈放、雨が降ったという逸話が語られる。
任尚の敗戦と滇零の勢力拡大
- 任尚・司馬鈞が滇零を攻めて大敗(戦死八千余)。滇零は自ら天子を称し、勢力を広げて漢中太守董炳を殺害するなど猖獗を極めた。
- 龐参が上書して、遠征より涼州の兵力を三輔に移し休養させ、機を見て反撃する持久策を提言。樊准もこれを推挙。
- 龐参は赦免されて西方軍務の監督にあたり、梁慬が武功・美陽で羌を撃破する戦果を上げた。
- 鄧太后は鄧騭を召還して大将軍に昇格させ、任尚も敗軍にもかかわらず楽亭侯に封じられた(作中で不当な処置と批判される)。
羌乱の拡大と諸方面軍
- 三輔がなお脅かされ、任仁の派遣も戦果を挙げられず、当煎勒姐種・鐘羌が破羌県・臨洮県を陥落させた。
- 財政難から、銭穀の献納により爵位や官職を得られる制度が導入された。
- 河洛・并涼で水害と飢饉が相次ぐ中、海賊張伯路の反乱、烏桓・鮮卑の侵入、南匈奴の離反による美稷包囲など、各地で騒乱が同時多発した。
- 鄧太后は龐雄(海賊討伐)、何熙(五原救援)、耿夔(南単于討伐)、梁慬(度遼将軍代行)をそれぞれ派遣した。
南匈奴の平定
- 耿夔・梁慬が奧鞬日逐王を撃破。単于檀は漢人の降虜韓琮の甘言に乗って挙兵し美稷を包囲したが、梁慬の寡兵に手こずり、何度も敗走。
- 梁慬・耿夔・龐雄の連合軍が虎沢を攻め、単于檀はついに降伏。子を人質に出し、掠奪した漢民を返還した。
- 五原の烏桓残党も一掃され、北方は平定された。何熙は病没し、梁慬が正式に度遼将軍となった。
海賊の平定
- 張伯路の残党が再起して厭次県を攻めたが、王宗・法雄が赦免策と奇襲を併用して壊滅させた。
虞詡の登場と涼州放棄論への反論
- 西方では滇零が褒中に侵攻し、任尚は召還されて長安に駐屯。
- 鄧騭は涼州放棄・朔方専守を主張し、公卿もこれに同調しかけたが、郎中虞詡が太尉李修に上書し、涼州放棄の危険(辺境の喪失、園陵の危機、涼州兵の離反による大乱の恐れ)を説いて翻意させた。
- 虞詡はさらに涼州の豪傑・牧守の子弟を登用して懐柔する策を提案し、李修・公卿も賛同した。
虞詡の朝歌統治
- 鄧騭はこれを恨み、虞詡を危険な朝歌長に左遷して陥れようとしたが、虞詡は意に介さず赴任。
- 河内太守馬稜に策を語り、賊の攻劫・窃盗・遊民の三種を分類し募集した壮士で伏兵を仕掛けて賊を撃破。さらに縫製業者を使って賊の衣服に目印を付けさせ、市中で摘発する策で賊を壊滅させ、朝歌を鎮めた。
評語
- 鄧騭は二年連続で敗北しながら大将軍に昇進し、任尚も西域を失い平襄でも敗れながら侯に封じられるなど、賞罰が乱れていた。
- 真に功績のあった梁慬を重用せず、虞詡の献策も鄧騭の私怨により危地へ左遷する形で報いられた。作者は鄧騭と鄧太后への不満を表明している。