後漢演義第四回 脅迫を受け廉丹は戦死し、光復を図り劉氏は挙兵する (受脅迫廉丹戰死 圖光復劉氏起兵)
反莽の動きと弾圧
- 巨鹿の馬適求が王莽暗殺を企てたが発覚し処刑、関係者数千人が連座で殺された。魏成大尹李焉も讖文を用いた予言に関わり処刑され、汝南の郅惲も上書で王莽に譲位を勧めて投獄された(後に恩赦で釈放)。
- 王莽は民心が漢に向いていることに苛立ち、漢の高廟を破壊させて兵営に転用するなど、感情的な報復に走った。
群盗の拡大
- 上谷の儲夏が瓜田儀の投降交渉に成功したものの、儀は招降前に病死。代わって秦豊(南郡)や女賊・遅昭平(平原)が新たに台頭した。
- 左将軍公孫祿は群臣の前で、盗賊蜂起の原因は悪政を敷く側近官僚たちにあると直言し、匈奴遠征の中止と和親を進言したが、王莽は激怒して彼を追放した。
荊州における綠林軍の躍進
- 荊州牧が綠林軍(王匡・王鳳ら)討伐に向かうも大敗し、さらに馬武の奇襲を受けて輜重を奪われ命からがら逃げ帰った。綠林軍は竟陵城も攻略し勢力を拡大したが、疫病の流行で山中の勢力は分裂。王常・成丹は南郡に移り「下江兵」、王匡・王鳳・馬武らは南陽に移り「新市兵」と称するようになった。
田況の献策と更始・太師軍の壊滅
- 冀平連帥・田況は独自に壮丁を募って賊を撃退し功を挙げたが、良策(拠点防御に徹し無闇な出兵を控えるべきという建言)を王莽に疑われて召還されてしまう。
- 太師王匡・更始将軍廉丹が十万の兵を率いて東征したが、随行の民を過酷に徴発し民心を失った(「寧ろ赤眉に遭うも太師に遭うな」という歌が広まるほど)。成昌での戦いで王匡は敗走、廉丹は「戦えぬなら死ぬのみ」と踏みとどまり奮戦の末に戦死した。
劉秀・劉縯兄弟の挙兵
- 南陽白水郷にて漢景帝の末裔・劉秀(字は文叔、長兄は劉縯)が挙兵。かつて占い師の蔡少公が「劉秀が天子となる」と予言した際、居合わせた劉秀自身が「それは自分かもしれない」と応じ、一同の失笑を買った逸話が伏線として語られる。
- 李通・李軼兄弟の勧めで劉縯が同志を集めて舂陵で挙兵。子弟の多くは尻込みしたが、謹厚で知られる劉秀までもが軍装で現れたことで多くが従うようになり、七、八千の兵を得た。李通の一族は発覚により王莽に六十四人皆殺しにされる犠牲を払った。
初戦の勝敗
- 劉縯は平林・新市の軍と合流し、長聚・唐子郷を攻略。奪った財物の分配を巡る内紛を劉秀が調停して丸く収めた。
- 棘陽を落とした後、小長安聚で莽軍(甄阜・梁邱賜)に大敗し、劉縯の妻子や劉秀の姉・元らが犠牲となった(劉秀は妹を馬に乗せて自身は逃れたが、姉は「二人で共倒れになるな」と告げて自ら残り討たれた)。
下江兵との合流
- 棘陽に退いた劉縯のもとへ、李通の仲介で下江兵の王常が合流を申し出る。王常は「南陽の劉氏こそ真に頼れる英雄」と判断し、部下の異論を抑えて連合を決断した。
次回予告
評語
- 廉丹の戦死について、史家がこれを「忠節」とせず「赤眉が廉丹を誅した」と記す例を引き、逆賊に加担して死ねば賊とみなされる道理を説く。臣下たる者は仕える主を選ぶべきだという教訓とする。
- 劉縯が事を起こし劉秀がこれを助けたという通説に対し、劉秀自身も当初から高い志を秘めていたことを蔡少公の逸話や軍装での登場から読み取れると指摘し、劉秀の権略・才略は兄をしのぐものであったからこそ、最終的に天下を得たのは弟の方だったのだと結ぶ。