後漢演義第三回 盗賊が蝟のごとく集い官に抗し、父子は姦淫より謀反を企てる (盜賊如蝟聚眾抗官 父子聚麀因奸謀逆)
匈奴との駆け引きの続き
- 烏累単于(咸)は登の返還を求めたが、登はすでに死んでいたため王莽は偽って棺を送り出した。単于は欺かれたと知りつつも自国の地盤が固まっていないため一時和議を続けた。国境での略奪は止まなかった。
- 天変(彗星・日食・霜害・黄霧など)が相次ぎ、王莽は責任を大臣に転嫁して太傅平晏らを罷免した。
西域での敗北
- 王莽は西域都護李崇らを派遣し焉耆国を襲撃させようとしたが、焉耆側の偽りの降伏に騙されて伏兵の奇襲を受け、王駿が戦死。郭欽・何封の救援でかろうじて崇のみ生還した。
- 南方では平蛮将軍馮茂が鉤町討伐に失敗して召還・処刑され、後任の廉丹も疫病と兵站難で戦果を挙げられなかった。越雋では任貴が反乱を起こし太守を殺害するなど、各地で統制が崩れていった。
「六筦」課税と民の困窮
- 王莽は塩・酒・鉄・山沢採取・賒貸・銅冶の六種の課税(六筦)を課し、違反者を重罰したため、貧富を問わず民の生活は圧迫された。これが各地の盗賊蜂起の温床となる。
群雄・群盗の蜂起
- 会稽の瓜田儀、瑯琊の呂母(子を冤罪で殺された恨みから挙兵し海賊化)、新市の王匡・王鳳(飢饉で荊州の民を糾合)など各地で反乱が相次ぐ。王匡・王鳳の勢力は南陽の馬武・王常・成丹らと合流し、綠林山を拠点とする「綠林軍」として七、八千人規模に拡大した。
- 王莽は招撫や威嚇(威斗と称する呪術的な銅製北斗を作らせるなど)を試みたが効果はなく、盗賊はさらに増え続けた。
赤眉軍の台頭
- 瑯琊の樊崇が莒県を拠点に一万余の兵を集めて盗魁となり、逄安・徐宣・謝禄・楊音らが呼応。眉を朱く染めて敵味方を識別したことから「赤眉」と呼ばれるようになった。刁子都(力子都)も東海で独自に勢力を張った。
匈奴との誘拐まがいの外交
- 匈奴烏累単于の死後、弟の輿(呼都屍道臯若鞮単于)が即位。王莽は須卜当(王昭君の娘婿)を単于に据えようと画策し、和親侯王歙を使って須卜当父子を騙して長安に連れ帰った。これに激怒した単于は本格的な侵攻に転じる。
- 大司馬・厳尤は山東の盗賊対策を優先すべきと諫めたが、王莽はこれを聞かず罷免。代わりに董忠を大司馬に据え、無理な徴兵・徴税で匈奴遠征を強行しようとした。空を飛ぶ技を持つと称する人物(実演したが数十歩で墜落)や巨躯の巨毋霸を集めるなど、常軌を逸した動員策も見られた。
王氏(王莽の後妻)と原碧、王臨の悲劇
- 王莽の子・臨(統義陽王、元皇太子)は、母の看病中に侍女の原碧と密通するようになった。原碧はもともと王莽の寵愛を受けていたため発覚を恐れ、臨に父殺しをそそのかす。臨の妻・劉愔(劉歆の娘)は星占いから「白衣の会(喪)」を予言し、これが謀反の機運を後押しした。
- 実行前に王莽が臨を疎んじて宮外へ移したため計画は頓挫。臨が母への手紙で不安を訴えたことから王莽が疑念を抱き、妻の死後に原碧を尋問して密通と謀反の企てが露見。王莽は原碧を打ち殺し、臨には毒を賜ったが臨は自刎して果てた。劉愔も夫を陥れたと責められ服毒自殺した。
相次ぐ身内の死
- 地皇二年正月、臨の死に続き、王莽の子・安(新建王)と孫の公明・公寿も相次いで病死。王莽はそれでも反省せず、漢の武帝・昭帝の廟を壊して子孫の墓地に転用した。
(詩:肉親にまで害が及んでも改心しない王莽の非道を詠む)
次回予告
- 王莽のさらなる悪行の報いとして、東西で反乱が起こる次第は次回。
評語
- 「外が安定していれば内に憂いが生じる」という古人の言葉を引き、王莽の場合は自ら外に禍根を蒔いたことが内乱を招いたと指摘する。夷狄と戦を構えなければ重税も過度な盗賊蜂起も防げたはずだと惜しむ。
- 内には逆子と姦婦による謀反の企てまであり、王莽が生き延びられたのはわずかな幸運に過ぎないとし、天が彼を子女の手で死なせず、まず子孫を自らの手で失わせた上で孤立無援のまま滅ぼそうとしているのだと結ぶ。