後漢演義第二回 故廟を毀ち故后を偲び、外釁を挑み夷狄を怒らせる (毀故廟感傷故后 挑外釁激怒外夷)

龔勝、餓死して漢に殉じる

  • 前漢哀帝の頃の光禄大夫・龔勝は王莽の専権を嫌って辞職・帰郷していたが、王莽は簒奪後に彼を懐柔しようと使者を送り出仕を求めた。龔勝は病を理由に固辞し続け、最後は絶食して十四日後に息絶えた(七十九歳)。
  • 葬儀の場に現れた身元不明の老翁が「香は自ら燃えて尽き、膏は自ら明かりで消える。龔生よ、天寿を全うせず逝くとは、我が徒ではない」と嘆いて立ち去るという逸話が伝わる(後に彭城の隠士と判明)。

節を守った他の名士たち

  • 斉人の薛方は召しを拒み、南郡太守郭欽・兗州刺史蔣翊も病と称して隠退。陳咸も辞職して漢の旧習を守り続けるなど、王莽に仕えることを潔しとしない士人が各地にいたことを列挙し、揚雄のような「莽大夫」との対比とする。

孝元皇后(王政君)の晩年

  • 王莽の伯母にあたる孝元皇后は、王莽の簒奪を悔い、王莽が漢の宗廟(元帝廟)を壊して「新室文母」のための生祠を建てたことに対し涙を流して抗議した。それでも表面上は王莽に従い続け、始建国五年に八十四歳で没した。
  • 元后の遺体は元帝陵に合葬されたが溝で隔てられ、新室文母廟では元帝の位牌が下座に置かれるという異例の扱いを受けた。

匈奴との衝突の発端

  • 王莽は使者を送って匈奴単于の印を漢の「璽」から新朝の「章」に強引に取り替えさせ、単于の不満を招いた。さらに匈奴の呼称を「降奴服于」と侮辱的に改めるなど挑発を重ねた。
  • 匈奴の内部分裂に乗じて右犁汗王咸(後の孝単于)らを懐柔しようとしたが、単于烏珠留はこれに激怒し、匈奴軍が国境を侵犯する事態となった。

厳尤の諫言と大規模出兵

  • 将軍厳尤は、過去の周・秦・漢の対匈奴策を引き合いに出し、三十万の大軍を動員する遠征の非現実性(食糧・輸送・気候などの困難)を五点にわたり具体的に諫めたが、王莽は聞き入れず出兵を強行した。
  • 実際には兵糧の徴発が難航し、民は疲弊して逃散・盗賊化する者が続出。辺境では匈奴の侵入により被害が拡大した。

西南・西域でも相次ぐ反乱

  • 西夷の鉤町王が漢の官吏に誅殺されたことをきっかけに弟の承が報復の兵を挙げ、牂牁を攻略。益州でも蛮夷が蜂起し官吏を殺害した。
  • 西域でも車師が匈奴に降り、戊己校尉刁護が部下に殺害されるなど離反が相次ぎ、高句驪にも無理な出兵要求をして反発を招いた。

貨幣改革と過酷な法令

  • 小銭の混乱に始まり、王莽は寶貨・五十大銭などを次々発行しては旧五銖銭の私蔵を厳罰化し、私鋳には五家連坐制を課すなど過酷な法を敷いた。夫婦の引き離し・官職の頻繁な改称なども重なり、民の不満は増大した。
  • 地方官の巡察も賄賂目当てで実効を欠き、訴えは滞留し、辺境の民は胡族の侵攻と重税の両方に苦しめられた。

匈奴との一時的和議

  • 単于烏珠留の死後、須卜当が擁立に関わった咸(烏累若鞮単于)が和親を求めてきたため、王莽は王歙らを派遣して和議を進めた。単于側の要求で捕らえた反逆者(陳良・終帯ら)を火刑に処し、いったん出兵は取りやめとなった。この年、王莽は天鳳と改元した。

(詩:功も立たぬまま兵の犠牲ばかり重ねた無策の対匈奴策を詠む)

次回予告

  • 単于が使者を送り侍子の登の返還を求めるが、登はすでに死去している。その後の顛末は次回。

評語

  • 孝元皇后が王莽を寵愛したことが災いの発端であり、簒奪後に後悔しても遅かったと総括する。宗廟を壊すほどの大事の前では、些細な意地(黒貂・臘祭の維持)は無意味だったとも指摘する。
  • 王莽は国内を欺くことはできても外夷は欺けず、厳尤の諫言を退けて匈奴遠征に固執した結果、東西南の各方面で同時に乱が起きた。古人の「古に反する者は災いが身に及ぶ」との言葉通り、詐術に頼る者は必ず敗れるという教訓で締めくくる。