後漢演義第一回 偽の符命で餅売りまで封じ、連座を恐れ校書閣より身を投げる (假符命封及賣餅兒 驚連坐投落校書閣)
前置き(前漢演義との接続)
- 漢代の歴史は王莽の簒奪を境に前漢・後漢(西漢・東漢)に分かれる。『前漢演義』は秦始皇から王莽の簒奪までを描いた既刊で、本作『後漢演義』はそこから続けて王莽に始まり三国時代の終焉までを描く。
- 正統論(魏を正統とするか蜀漢を正統とするか)について、著者は劉備(漢景帝の後裔)を漢の血脈として重んじる立場を取り、『三国志』の記述に基づき三国部分も本作に含めることを述べる。
後漢興亡の見取り図
- 光武帝の中興から章帝までは君主専政の時代、和帝から桓帝までは外戚と宦官が交互に権力を握った時代、桓帝から献帝までは宦官が横行した時代である。
- 献帝の代には乱党の抗争、群雄割拠、三国鼎立と局面が移り変わる。その禍根はすべて後宮(母后の専権)に発すると総括する。
王莽、新朝を建てる
- 王莽は漢の平帝を毒殺し、孺子嬰を廃して漢の天下を奪い、新朝を建てて始建国元年と号した。孺子嬰は定安公に封じられ幽閉同然の扱いを受ける。
- 王莽は哀章が偽造した「金匱策書」を利用し、王舜・平晏・劉歆・哀章を四輔、甄邯・王尋・王邑を三公、甄豊・孫建・王興・王盛を四将に任じた。このうち王興・王盛は哀章が適当にでっち上げた架空の名だったが、王莽が全国に同姓同名の者を探させたところ、城門令史の王興と餅売りの王盛という実在の人物が見つかり、そのまま将軍に任じられるという珍事が起きた。
新朝の制度改革
- 王莽は自らを黄帝・虞舜の後裔と称し、姚・媯・陳・田・王の五姓を同宗として祖廟を整える一方、漢の諸侯王・列侯の爵位を軒並み格下げした。
- 剛卯金刀(漢の護符・貨幣の旧制)を廃止して新たな小銭を鋳造させ、井田制を模した「王田」制で土地の私売買を禁じ、奴婢の売買も禁止するなど急進的な改革を次々に打ち出したが、実効性を欠くものが多かった。
劉快の挙兵と失敗
- 徐郷侯劉快が莽討伐の兵を挙げ即墨を攻めたが、地元の吏民に阻まれて敗死した。兄の劉殷は連座を恐れて自ら獄に入り謝罪し、王莽は劉快の妻子のみを罰した。
- 翌年(始建国二年)、王莽は漢室の諸侯王を全て廃して庶人に落とし、漢の宗廟も廃止させた。ただし符命を称えて功徳を頌えた劉歆ら三十二人だけは宗祀存続を許された。
定安太后(王莽の娘)の貞節
- 王莽の娘で平帝の后だった定安太后は、父の簒奪以来ふさぎ込み朝会にも出なかった。王莽は再婚させようと腹心・孫建の子の孫豫を医者を装って忍び込ませたが、太后は拒絶し侍女を叱責。王莽はこれを見て縁談を断念した。
甄尋の陰謀と甄豊父子の破滅
- 更始将軍甄豊の子・甄尋は定安太后に横恋慕し、符命(吉兆の予言書)を偽造して父の甄豊を「右伯」に、自らを定安太后の夫にと願い出た。王莽は前者は許したが後者に激怒。
- 甄尋は逃亡し、王莽は劉歆の子・劉棻や丁隆、王奇ら関係者を次々と捕らえて詮議した。甄豊は追及されて服毒自殺、甄尋も捕らえられ、最終的に劉棻・丁隆・甄尋は死罪となった。
揚雄の投閣事件
- 劉棻の師であった学者・揚雄(『太玄経』『法言』の著者)も嫌疑をかけられ、老齢を苦にして天禄閣から身を投げたが一命を取り留めた。王莽は彼への追及を免じたが、甄尋・劉棻らは処刑された。
- 揚雄はその後『劇秦美新文』を著して王莽に媚び、これが世の嘲笑の種となった。天鳳五年に病死。
(詩:才に恵まれながら権勢に阿った揚雄への皮肉を詠む)
次回予告
- 揚雄とは対照的に、漢に殉じて名を残す人物が次回登場する。
評語
- 王莽が餅売りにまで将軍位を与えたのは金匱符命に基づく人心収攬の策だが、結局は人を欺くつもりが自らを欺く結果となり、滅亡を早めただけだったと評する。
- 王莽の娘(定安太后)が父と異なり漢に節を守ったことは称えるべきだが、甄尋が故后を妻にしようとしたのは死に値する。劉棻・丁隆らは同じ逆党として連座させられ、史家も彼らの冤罪を弁護しない。
- 揚雄は王莽の大夫となり、投閣で死ねなかった上に『美新』の文まで著して媚びた点を厳しく批判し、老いても恥を知らぬ振る舞いだったと断じる。