後漢演義第五回 漢裔を立て淯水で壇に登り、莽将を破り昆陽で敵を掃う (立漢裔淯水升壇 破莽將昆陽掃敵)
藍郷夜襲と泚水の勝利
- 劉縯は下江兵との合流で勢いを盛り返し、除夜に藍郷を奇襲して莽将・甄阜と梁邱賜の輜重を奪取。翌正月元日、そのまま泚水へ進撃し、劉縯本隊と下江兵の両翼で甄阜・梁邱賜の軍を撃破した。両将は戦死し、潢淳水では溺死者が続出、一万余りが討たれる大勝となった。
宛城包囲と劉玄擁立
- 莽将・厳尤と陳茂は宛城の危機を知り援軍に向かうが淯陽で劉縯軍に大敗し、ほとんどの兵が降伏。劉縯は降兵を合わせ十万規模の軍勢で宛城を包囲した。
- 諸将は漢室再興の旗印として皇帝を立てることを議論。劉縯は「赤眉軍も別に漢帝を立てれば二帝並立で争いになる」「まだ王莽を滅ぼしていないのに先に尊号を称するのは得策でない」と反対したが、新市の武将・張卬らの強硬な主張に押し切られ、庸弱な劉玄(劉縯の同族)が皇帝に擁立された。年号は「更始」と定められ、劉縯は大司徒、劉秀は太常偏将軍に任じられた。
王莽の焦りと退廃
- 劉縯挙兵の報に驚いた王莽は、劉縯の首に懸賞をかけ呪術的な調伏まで行う一方、後宮に百二十一人の美女を集め、老いを隠すため白髪を黒く染めて婚礼を挙げるなど、危機下でも享楽にふけった。
- 昆陽・郾県・定陵が次々と漢軍に落とされる報を受け、王莽はようやく大司空王邑・大司徒王尋に大軍(四十二万、号して百万)を動員させ昆陽へ向かわせた。巨躯の巨毋霸に猛獣(虎豹犀象)を率いさせるなど、異例の陣容だった。
昆陽籠城
- 昆陽を守る劉秀は、莽軍の大軍と猛獣の軍容に浮足立つ王鳳らを説得し、徹底抗戦を主張。自ら李軼ら十三騎で夜陰に紛れて城を脱出し、郾県・定陵に援軍を求めに向かった。
昆陽包囲戦
- 王邑は嚴尤の進言(宛への迂回策、包囲に一角の逃げ道を残す策)をいずれも退け、力攻めで昆陽を落とそうとした。城内は矢の雨にさらされ危機的状況となる。出陣前夜には流星や異様な黒雲が現れ、不吉の兆しとされた。
昆陽の逆転勝利
- 六月朔日、劉秀は郾・定陵の兵(約一万)を率いて帰還し、寡兵ながら猛攻を仕掛けて莽軍の前衛を撃退。士気が上がった漢軍は敢死隊三千で王邑・王尋の本陣を突破し、王尋を討ち取った。
- 王邑の壘尉・巨毋霸が猛獣を放って反撃を試みたが、突然の暴風雨で獣が味方の陣に暴れ込み大混乱に陥り、巨毋霸自身も川に落ちて溺死。莽軍は総崩れとなり、王邑・厳尤・陳茂らはかろうじて逃げ延びた。この昆陽の大勝が漢室中興の第一の功績となった。
(詩:寡兵で百万の敵を打ち破った昆陽の勝利を、天の助けと劉秀の勇気に帰して詠む)
次回予告
- 昆陽の勝利と同時期に宛城も陥落していたことが語られ、その詳細は次回。
評語
- 劉縯が「事を起こした者は成功しにくい」と見抜いて劉玄擁立に反対した判断力を評価しつつ、あえて身を引く柔軟さを欠き、鋭さが災いして後に非業の死を遂げたことを惜しむ。
- 対照的に劉秀は小敵には慎重、大敵には果敢という機微を弁え、寡兵で王邑・王尋の大軍を打ち破った昆陽の戦いは天佑もさることながら本人の勇武によるものであり、この一戦が後漢中興の礎になったと総括する。