五代史演義第五十七回 山寨を破り君臣武を耀かし、州城を失い夫婦忠を尽くす (破山寨君臣耀武 失州城夫婦盡忠)

唐軍、壽州救援に向かう

  • 顯德四年、壽州包囲は年を越え城中の食糧は尽きかけていた。劉仁贍の度重なる救援要請を受け、斉王李景達は許文縝・辺鎬・朱元らに数万の兵を与え、紫金山に十余寨を築いて壽州と連携させ、南に甬道を通して糧秣を城内へ運び込ませた。

李重進の夜襲

  • 李重進は諸将に「劉仁贍の孤城は堅く落とせないが、援軍が糧道を築いた以上、計略を用いねば攻略できない」と告げ、夜襲を決行。前軍を牙将劉俊に、自らは後軍を率いて紫金山に迫る。
  • 朱元は夜襲を警戒し辺鎬・許文縝に注意を促すが両者は油断していた。周軍が急襲すると辺・許は不意を突かれて総崩れとなり、朱元だけが備えを固めて被害を出さずに済んだ。李重進の別動隊も加わり唐軍二寨が陥落、数千の死傷者と糧車数十台を失う大敗となった。

劉仁贍、実子を斬る

  • 敗報を聞いた劉仁贍は憤り、景達に決戦を進言するが容れられず、憂悶のうちに病に倒れる。末子の崇諫は父の死後に城が保てぬことを恐れ、密かに舟で後周へ投降しようとするが捕らえられ、仁贍の前に引き出される。
  • 仁贍は「唐臣として生き、唐の鬼として死ぬのが道、私に降敵するとは何事か」と激怒し斬罪を命じる。監軍使周廷構が助命を乞うも取り合わず、妻の薛氏も「軍法は私情で曲げられない、一人を宥せば劉家の忠孝が地に落ちる」と述べ、処刑を後押しした。崇諫は斬られ、その後に喪が発せられた。

李重進の撤兵論と世宗親征

  • 李重進は仁贍の軍紀の厳しさと紫金山援軍の存在から攻略の困難を悟り、撤兵を奏上する。世宗は判断に迷うが、病床の李穀が「親征すれば士気が上がり、援軍を破ってから孤城を攻めれば容易に落ちる」と進言し、世宗は再び親征を決意。王樸に京城留守を命じ、王環率いる水軍を先鋒に、自らも大船団を率いて淮水を下る。

紫金山の激戦、朱元の投降

  • 水戦に自信のなかった後周の水軍が意外な精強さを見せ、朱元は「周軍の水軍にはとても及ばない」と驚嘆する。世宗自ら甲冑を着て上陸し、趙匡胤らを従えて陣を構える。
  • 朱元は持久戦を主張するが、許文縝は速戦を主張して独断で出撃し大敗、朱元は援護を拒み関係が悪化する。許文縝はこれを恨みに思い陳覚に讒言、陳覚もかねて朱元の驕慢を憎み弾劾していたため、唐主李璟は朱元を疑い楊守忠に交代させようとする。
  • 朱元は絶望して自刎しかけるが、門客の宋垍に止められ「大丈夫たる者、無為に妻子のために死ぬな」と説かれ、後周への投降を決意する。

紫金山陥落、唐軍総崩れ

  • 世宗は朱元の投降を受けて紫金山への総攻撃を強め、趙匡胤の誘敵の計により許文縝・辺鎬の軍は分断されて敗走。朱元の陣にはすでに降伏の旗が翻り、唐軍は総崩れとなる。
  • 世宗自ら追撃を指揮し、趙匡胤・王環らが南北から挟撃。楊守忠の援軍も加わるが、張瓊・張懷忠らに次々と捕らえられ、辺鎬も落馬して捕縛される。李景達・陳覚の乗る大艦も王環の水軍に包囲され、岸辺からの矢に晒されて大敗、二、三万の兵が溺死または投降し、景達・陳覚は濠州へ敗走した。

濠州方面の後退と唐廷の動揺

  • 世宗は鎮淮軍に城砦を築いて濠州への通路を扼し、浮橋を移設する。唐の郭廷謂による浮橋破壊の試みも趙匡贊の伏兵に敗れ、陳覚は景達とともに金陵へ逃げ帰った。
  • 唐主は自ら軍を率いようとするが、諫言した中書舎人喬匡舜を左遷し、羅隠の詩を引いて暗に諫めた朱匡業・劉存忠も処罰する。結局、陳覚らの説得と後周軍の精強さへの恐れから親征は沙汰止みとなり、濠州・壽州一帯はますます孤立した。

劉仁贍の死と壽州陥落

  • 世宗は劉仁贍に降伏を促す書を送るが返答なく、自ら壽州城下で攻撃を続ける。仁贍は病篤く昏睡状態にあり、世宗の書状も目にしていなかった。周廷構は孫羽・張全約と諮り、仁贍の名を騙って降伏を上奏、仁贍の子・崇讓を伴わせて周営へ謝罪させる。
  • 世宗は壽州城北で盛大に受降の礼を行うが、担ぎ出された仁贍は意識朦朧のまま何も答えられなかった。世宗は民の罪を赦し旧令の不便を改めさせ、仁贍には天平節度使・中書令を加え、その忠節を讃える詔を下した。
  • 仁贍は降伏を知らぬまま、翌日息を引き取った。その死に際し天も哀しむかのように昼が暗み雨砂が降ったといい、州民は巷で泣き、多くの部下が殉死した。妻の薛氏も棺にすがって慟哭し、飲食を絶って四、五日後に後を追うように没した。

追悼と評価

  • 世宗は弔祭の使者を送り彭城郡王を追封、壽州の治所を下蔡に移して忠正軍と改称した。唐主も仁贍の死を悼み太師中書令・諡忠肅を追贈、夢に仁贍を見たとして衛王・薛氏を衛国夫人に進封し祠を立てて祭った。後の宋朝でも祀典に列せられ、忠顯の祠額を賜り代々祀られたという。
  • 世宗は朱元を蔡州防禦使、周廷構を衛尉卿、孫羽を太僕卿に任じ、壽州の飢民に倉を開いて食を給した。楊信を忠正軍節度使とし壽州を管轄させ、自らは都へ戻り、李重進らに濠州攻略を続けさせた。

評語

  • 南唐の名将は劉仁贍を筆頭に朱元が続く。朱元は智謀で敵に対抗しながら陳覚・許文縝らに妬まれ、投降へ追い込まれた。裏切りの責は免れぬが、追い詰めたのは唐廷自身であり、鋌而走険(追い詰められての暴挙)といえる。
  • 許文縝・辺鎬は凡庸、李景達は愚か、陳覚は卑劣で、いずれも世宗に対抗しうる器ではなかった。ひとり劉仁贍だけが孤城を死守し忠勇を貫いた。妻薛氏も大義を守り実子の処刑を後押しするなど、国のために家を忘れ、公のために私を忘れる姿勢は古今稀有である。
  • このような忠臣義婦を擁しながら、佞臣に阻まれて二人とも命を落とすに至ったことは、痛惜の極みである。名節を顕彰するのは後人の務めであり、綱常を維持し末俗を戒めるためにあえて詳しく記した。