五代史演義第五十八回 楚北に鏖兵し闔城節に殉じ、淮南、土を納め表を奉り投誠す (楚北鏖兵闔城殉節 淮南納土奉表投誠)

郭廷謂の反撃と周主の内政問題

  • 唐将郭廷謂は世宗の帰還を知り渦口の浮橋を破壊し定遠軍営を襲撃、周の武行德を敗走させる。唐主はこれを賞し、周主は行德・李継勲を降格処分とした。
  • 世宗の実父柴守禮は前許州行軍司馬韓倫(韓令坤の父)とともに洛陽で権勢を振るい、市民との諍いから数人を殺傷する事件を起こす。地方官も手を出せず訴えは宮中に達し、世宗は実父の守禮は不問に付す一方、悪事の多い韓倫を死罪に処そうとするが、韓令坤の哀願で流罪に減じた。
  • 内供奉官孫延希は工事の役夫を虐待した罪で処刑され、御廚使らも罷免。左庫藏使符令光も軍服調達の期限に遅れたことで諫言も聞かれず処刑され、都人はこれらの処断を冤罪と噂した。世宗は後悔しつつも気性が激しく、皇后符氏の取りなしでようやく事態が収まることが多かった。

濠州・泗州への進撃

  • 顯德四年十一月、世宗は厳寒を理由に諫める符皇后を退けて再び濠州・泗州へ出征。符皇后は憂鬱のうちに体調を崩す。世宗は王樸を留守に残し、趙匡胤らと鎮淮軍へ進み、濠州西の柵を落として城下に迫る。
  • 李重進は濠州南関を攻め落とし、王審琦が水寨を制圧、水軍は敵船七十余艘を焼き払う。追い詰められた郭廷謂は「家族が江南にいるため一旦金陵に伺いを立ててから降る」と申し出るが、世宗はこれを緩兵の計と見抜きつつも許し、援軍を殲滅する腹積もりで泗州へ転じる。
  • 泗州では水陸から敵船数百艘を破り五千級を討ち、趙匡胤が南関・水寨・月城を落として泗州守将范再遇を降す。匡胤は略奪を禁じ民心を得た。

清口の戦いと濠州陥落

  • 三路に分かれて進撃する周軍は清口で唐の陳承昭の陣営を急襲し、趙匡胤自ら追撃して承昭を捕らえ、唐の水軍を壊滅させた。
  • 援軍の望みを絶たれた郭廷謂は降伏を決意するが、起草を命じられた録事参軍李延鄒は「城と存亡を共にするのが臣の道」と拒絶。廷謂が「無辜の民を救うため」と説得しても聞かず、剣を突きつけられても「頭は斬られても降表は書かぬ」と言い放ち、その場で斬られた。廷謂は結局濠州を挙げて降伏し、世宗は廷謂を亳州防禦使に任じ、さらに天長攻略を命じる。

揚州の荒廃と楚州の攻防

  • 揚州守将は城を焼き民を南へ追い立てて逃げ、周将武守琦が入城した時には廃墟同然で老病者十数人が残るのみだった。世宗は韓令坤に流民の招集と軍府事務を委ねる。泰州・海州も相次いで陥落。
  • 楚州防禦使張彥卿と都監鄭昭業は劉仁贍さながらに徹底抗戦。世宗自ら攻城を督し、河を開削して戦艦を引き入れ水陸から攻めるが、彥卿は屈しなかった。子の光祚が降伏を勧めると、彥卿は「敵軍がどこにいるか見えるか」と諸将に問うふりをして光祚を斬り、「愛子でさえ降伏を勧めれば斬る、この城が我が死所だ」と言い放ち、諸将は感泣して降伏を口にしなくなった。
  • 四十日の籠城の末、世宗は城壁の下に穴を掘り火薬で爆破させて城壁を崩し、周軍が突入。彥卿は巷戦を続け、武器を失っても寝台の脚で奮戦して数十人を倒したのち「力尽きた」と叫んで自刎した。鄭昭業も戦死し、守兵千数百人は一人も降らず全滅した。
  • 世宗は激怒して屠城を命じ、州署から民家まで焼き払わせ、吏民一万余人が死んだ。趙匡胤は彥卿の家族を捜索させたが、末子光祐だけは忠臣の血筋として助命を願い出て許され、城壁の修築と民の移住が命じられた。

江南への圧迫と唐主の対応

  • 唐の天長軍使易贇が投降、世宗はそのまま揚州へ向かい、韓令坤の出迎えを受けるが城内は荒廃していた。故城の東南に新たに小城を築いて駐屯地とする。黄州刺史司超と王審琦は舒州軍を破り唐刺史施仁望を捕らえ、淮右はほぼ平定された。
  • 世宗は迎鑾鎮に至り趙匡胤に唐の艦隊を撃退させ、慕容延釗・宋延渥にも江岸を攻めさせて江南を震撼させた。江南の童謡「檀來(韃靼が来る)」が周軍の先鋒の異民族出身兵の歌と符合し、人々を恐れさせたという逸話も語られる。
  • 顯德五年三月、唐主李璟は帝位を弟の李景遂に譲って和議を図ろうとするが、景遂は辞退。景達も敗戦の責を取り元帥職を辞し、李璟は景遂を晋王兼江南西道兵馬元帥、景達を浙西道元帥兼潤州大都督とし、皇子燕王弘冀を太子に立てる。陳覚を使者として迎鑾鎮へ送り、譲位と和議を申し出させた。

江北割譲と和議成立

  • 世宗は陳覚に「譲位は不要、廬・舒・蘄・黄の四州と鄂州漢陽・汊川二県を献ずれば和議に応じる」と告げ、荊南・呉越からの援軍申し出の上表を示して威圧する。陳覚は恐れ入り、割譲を勧める使者を金陵へ走らせた。
  • 唐主は劉承遇を遣わし四州二県の献上を申し出るが、海陵の塩監だけは手元に残そうとして拒まれ、結局歳三十万石の塩の供出を条件に認められた。周正朔奉戴・歳貢なども確認され、世宗は罷兵の詔を発した。
  • 世宗は陳覚に「譲位の話は不要」と伝える親書を託し、唐主に修文励政を勧める内容が読み上げられた。世宗は呉越・荊南の兵を帰還させ、褒賞を与えて自身も揚州へ戻った。
  • 唐主はさらに馮延己・田霖を進奉使として派遣し、銀十万両・絹十万匹などの犒軍物資と表文を献上。追って徐遼・尚全も派遣され買宴銭二百万緡を献じた。世宗は行宮で彼らを饗応し、車駕を都へ帰した。将士への恩賞、戦没者遺族の救済、新たに得た淮南十四州六十県の未納賦税の免除などを詔し、馮延魯を江南国信使、鍾謨を副使として南唐へ遣わした。

唐主、帝号を除く

  • 李璟は帝号を除いて「国主」を称し、周の顯德年号を奉じ、祖廟の諱を避けて名を「璟」から「景」に改めた。馮延魯・鍾謨を再び周都へ遣わして謝恩の表を奉らせ、世宗は京師に進奏院を置いて使者を迎え、延魯を刑部侍郎、鍾謨を給事中に昇進させて南唐へ帰した。

評語

  • 周軍は淮水を破竹の勢いで進み、各城は多くが戦わずして降ったが、国のために身を捧げた者もいた。孫晟・劉仁贍のほか、降表を書くことを拒んだ李延鄒、そして張彥卿ら千余人の全滅した将士がその例である。
  • 張彥卿が我が子を斬った逸話は趙鼎臣『竹隱畸士集』にも見えるという。子は殺しても君には背かぬという大義滅親の臣節は、綱紀の乱れた五代の世にあってなお名教を支えるものであり、たとえ愚忠と評されようとも、その愚に及ぶ者は稀である。
  • 対照的に陳覚・馮延己らは膝を屈して哀願し、領土割譲も屈従も恥じず、生を偸み死を畏れて奴隷のごとく振る舞った。李璟が人材の登用を誤り、国を縮小させ帝号を返上するに至ったのは、まさに愚君のなせる業といえる。