五代史演義第五十三回 徐娘を寵し詩を賦し変に驚き、蜀帥を俘え地を得て功を報ず (寵徐娘賦詩驚變 俘蜀帥得地報功)
「平辺策」の献策
周主榮は群臣に統一策の論策を求め、比部郎中王樸の「平辺策」が採用される。王樸は南唐(呉)を最も攻めやすいとし、まず小規模な攻撃で敵を疲弊させ、江北を奪って国力を蓄えれば呉・蜀・幽州は自然に帰服し、北漢(並州)だけは強兵で臨むべきと説いた。王樸は左諫議大夫に抜擢され、まず西の蜀を、続いて南唐を討つ方針が固まる。
蜀主孟昶の享楽
蜀(後蜀)の主孟昶は秦・鳳州が周への帰属を望んだのを機に周軍の侵攻を招くが、自身は寵妃の死を悼んだのち花蕊夫人ら後宮の美女に溺れ、政務を顧みなかった。摩訶池での宴の最中に周軍侵攻の急報が入り、詩作を中断させられる場面も描かれる。
秦・鳳州方面の攻防
蜀の趙季札は傲慢で無能な指揮のため秦・鳳州の守将から不評を買い、周軍侵攻時には愛妾を連れて敵前逃亡し、蜀主の怒りを買って処刑された。蜀将李廷珪・王巒らは緒戦で小勝するも、王巒は黄花谷で周軍の伏兵に全軍を捕らわれ、他の蜀軍も総崩れとなり、秦州は投降、成州・階州も相次いで陥落。鳳州も王景の包囲で落城し、秦・鳳・成・階の四州が周の領土となった。
蜀主の強気と決裂
周は捕虜を厚遇して返還し、蜀主孟昶は駢文の国書で周に和を請うが、対等な礼式を用いたことに周主榮は不快感を示し、返書をしなかった。蜀主はやがて強気な態度に転じ、周との関係は再び断絶した。
評語
声色に耽ることは国を誤る最たるものであり、古来これで国を保てた君主はいないとする。孟昶は淫逸と奢侈により蜀を治める気力を失い、周の一撃で四州を失った。花蕊夫人が後に宋に降り「十四万人斉しく甲を解く、一人も男児無しとは」と詠んだ故事にも触れ、美人が国を誤る責は軽くないが、孟昶自身の責がそれ以上に重いと結ぶ。