五代史演義第五十二回 猛将を喪い英主師を班し、堅城を築き良臣虜を破る (喪猛將英主班師 築堅城良臣破虜)
樊愛能・何徽の処刑
夜、周主は張永德の進言を得て決断し、翌日、高平で溃走した樊愛能・何徽と部将数十名を軍法により斬首。家族は罪を問わず、遺体は棺に納めて帰葬させた。以後、驕将惰卒は戒めを知るようになった。
論功行賞と河東進攻
李重進・向訓・張永德・史彥超らが節度使に昇進し、趙匡胤も張永德の推挙で殿前都虞侯に抜擢された。周主は符彥卿を都部署として河東(北漢)討伐に乗り出し、汾州の董希顏を降し、遼州・沁州・石州も次々帰順。周主自ら親征に赴くと、河東の民は苛政に苦しみ周軍を歓迎した。
晋陽包囲と史彥超の戦死
諸将は芻糧不足を理由に班師を勧めるが、周主は聞かず晋陽城を包囲。忻州・代州方面の攻略は進むも、先鋒の史彥超が敵を深追いして山中で孤立し、力尽きて戦死した。彥卿は敗状を報告し班師を願い出る。
班師と犠牲
遼への使者だった北漢の王得中は、拷問にも屈せず本国への忠義を貫いて縊死させられた。周主は彥超の遺骸も探し得ぬまま招魂して棺に納め、大雨と疫病、糧秣の窮乏を理由に班師を決断。同州節度使藥元福が殿軍を務め、追撃してきた北漢軍を方陣から長蛇陣に転じる戦術で撃退した。
馮道の死と論功
新鄭で周太祖の陵(嵩陵)に拝謁し埋葬を終えた頃、監督にあたっていた太師馮道が病死。歴仕四朝、遼からも太傅を受けた馮道の処世を、後世の欧陽脩は「無恥」と評したという逸話が付され、対比として夫の死に殉じかけた貞節の妻・王凝妻の逸話が語られる。凱旋後、周主は符皇后を冊立し、従軍諸将に加封した。
軍制改革
周主は「兵は精を貴び多きを貴ばず」として趙匡胤に禁軍の閲兵・精鋭選抜を命じ、驕兵惰卒を淘汰させた。これが後の趙匡胤の勢力伸長の伏線となる。
北漢の代替わりと辺境防衛
その冬、北漢主劉崇が病没し、子の劉承鈞(劉鈞)が跡を継ぎ遼に臣従。周は夏州の李彝興が朝命に従わなかった一件も詰問して屈服させた。辺将張藏英の献策により葫蘆河を掘削し大堰口に城砦(静安軍)を築いて遼の侵入を防ぎ、遼軍を撃退することに成功した。
評語
高平の戦いで進むことを知り退くことを知らなかった果断さが周主の長所であり短所でもあると評す。晋陽包囲では損害ばかりで得るところがなく、結局北漢の失地は撤兵とともに元に戻ってしまった。一方、張藏英の河川開削・築城は守りながら攻める良策であり、勇に頼って死んだ史彥超と、謀をもって功を成した張藏英の対比から、将たる者の得失が示されるとする。