五代史演義第五十一回 滋徳殿に病終わり遺嘱を留め、高平県に敵愾し奇勲を奏す (滋德殿病終留遺囑 高平縣敵愾奏奇勳)

王峻の失脚

樞密使王峻は寵を恃んで増築や人事介入を重ね、周主の不興を買っていた。寒食の日、王峻は無理に宰相二人の更迭を迫り、周主は空腹をこらえて生返事をするが、翌日百官の前で王峻を拘束し、商州司馬に左遷。王峻は失意のうちに憂悶して病死した。連座した顏衎・陳觀も貶官された。

王殷の誅殺

鄴都留守の王殷も王峻と並ぶ功臣だったが、聚斂を続け河北の戍兵を勝手に動かすなど専横が目立ち、周主の警戒を招いていた。王殷が無断で入都し騎士を従えて威勢を示すと、周主は病をおして滋德殿で王殷を拘束、官爵を剥奪して登州に流罪、さらに謀反の疑いで処刑した。

郭榮への権限委譲と周主の病

二王を除いた周主は皇子・晋王郭榮に内外の兵馬事を委ね、諸将の配置を改める。周主の病は癒えず、太廟祭祀や南郊の大祀も体調不良の中で強行し、顯德元年と改元。牙校曹翰の諫言を機に、郭榮は禁中に入って病床の父に付き添うようになった。

周主郭威の遺言と崩御

周主は薄葬を厳命し、紙衣瓦棺での埋葬、殉葬や石人石獣の禁止、唐代諸陵が盗掘された教訓を挙げて質素な陵墓を求めた。馮道・范質・李穀ら重臣への加官を命じ、外甥の李重進に郭榮への服従を誓わせた後、滋德殿にて崩御(享年五十一)。郭榮は喪を秘して大殮ののち即位し、太祖の廟号・諡号が定められた。

北漢・遼の侵攻と親征の決断

潞州節度使李筠より、北漢主劉崇が遼将楊袞と結んで潞州に侵入したとの報が入る。馮道ら重臣は新帝の親征に反対したが、周主榮は「劉崇は喪に乗じて攻めてきた好機のつもりだろうが、自分は太宗に劣らぬ」と押し切り、親征を決定した。

高平の戦い

澤州付近の高平で両軍が対峙。北漢は遼の援軍を得て意気込むが、遼将楊袞は「周軍侮り難し」と忠告するも劉崇は聞かず、風向きの吉凶をめぐる諫言も退けて開戦した。序盤は樊愛能・何徽の右軍が崩れて溃走したが、周主自ら陣頭に立って督戦。趙匡胤(後の宋太祖)が張永德とともに奮戦して劣勢を覆し、内殿直馬仁瑀・殿前右番行首馬全義らの活躍で北漢の驍将張元徽を討ち取ると、風向きも南風に変わって周軍が圧倒、北漢は大敗して劉崇は単身逃走した。

戦後処理

溃走した樊愛能・何徽は輜重を略奪するなど失態を重ね、河陽節度使劉詞の援軍が追撃戦にとどめを刺した。周主は潞州で樊愛能・何徽の処罰を検討する。

評語

郭威の遺言は薄葬を尊ぶ点は評価できるが、真に民に恩沢を施した君主なら盗掘を恐れる必要はなかったはずだとし、疑冢を分置する発想は曹操の七十二疑塚と通じると皮肉る。郭榮即位早々の北漢侵攻に対し、馮道の諫めを退けて親征を断行した果断さと、樊愛能・何徽のような裏切り者がいてもなお勝利を収めた背景には郭榮自身の英武があったとする。ただし柴氏が郭氏の後を継いだ血統の断絶は、辛苦の末に他人のために尽くしたに等しいとも評される。