五代史演義第五十回 辺鎬を逐い潭州府を攻め入り、劉言を拘え計り武平軍を奪う (逐邊鎬攻入潭州府 拘劉言計奪武平軍)

慕容彥超の最期

兗州に籠城した慕容彥超は蓄財に走り士心を失い、周主郭威の攻囲で追い詰められる。鎮星の神に加護を祈るも城は陥落し、彥超は府署に火を放って妻とともに投井自殺、子の繼勳も捕らえられて処刑された。周主は一族を誅し、竇儀の取りなしで脅従の将佐は許された。

曲阜行幸と德妃の死

周主は曲阜で孔子廟に拝礼し、孔子の子孫孔仁玉を曲阜令に、顏淵の後裔顏涉を主簿に任じた。まもなく德妃董氏(もと劉進超の妻、後に郭威の側室となった女性)が病没し、周主は哀悼した。

湖南情勢――邊鎬の失政

南唐の邊鎬は長沙を治めて当初「邊菩薩」と慕われたが、仏事に浪費して政治を顧みず、南漢に郴州を奪われるなど威信を落とす。部下の待遇不満から指揮使孫朗・曹進が反乱し、朗州の劉言のもとへ逃れた。

王逵の献策と湖南攻略

孫朗の勧めで王逵は湖南攻略を決意。南唐では馮延己と孫晟が対立し、唐主璟の湖南方針も迷走するうちに、唐の援軍は南漢軍に敗れる。唐主が劉言召還を図ると、王逵は先んじて挙兵を主張し、周行逢を行軍司馬に据えて出陣。益陽で唐将李建期を捕らえ、潭州に迫ると邊鎬は敗走し、混乱の中で溺死・圧死者約一万人を出して潭州は陥落した。

王逵、劉言を追放し武平軍を奪う

王逵は潭州を占拠し岳州も攻略、湖南の旧馬氏領はほぼ劉言の勢力下に帰した。郴州攻めは南漢の潘崇徹に撃退される。劉言は周に帰服を報告し、周は劉言を武平節度使、王逵を武安節度使などに任じた。だが王逵は劉言に臣従せず、両者の間に確執が生じる。周行逢の策で王逵は何敬真・朱全琇を酒色に溺れさせた上、劉言の名を騙って両名を処刑し、さらに李仲遷・李仿らも次々と排除。最後に王逵自ら朗州を急襲して劉言を幽閉し、周には劉言謀反を装って報告、周主はやむなく王逵を武平軍節度使兼中書令に認めた。王逵は潘叔嗣を送って劉言を殺させた。

郭榮の再婚

鎮寧節度使郭榮(後の周世宗)は先妻を劉銖に殺されており、符彥卿の娘を後妻に迎えた。

王峻の専横

郭榮は再三入朝を願うが、宰相となった王峻が英明な郭榮を忌んで妨げていた。黄河決壊の巡視で機会を得た郭榮はついに入朝を許され、開封尹・晋王に任じられる。これを知った王峻は動揺し、辞職を申し出るが慰留され、なおも要求を重ねて周主との関係に亀裂が生じ始める。

評語

邊鎬が馬氏を虜にし、劉言が邊鎬を逐い、王逵が劉言を殺す――まさに蟷螂が蝉を捕らえてもその後ろに黄雀がいる連鎖であり、当事者だけがそれに気づかない。劉言を推戴しながら殺し、功臣の何敬真・朱全琇まで殺す王逵の権力争いは、後世の擁兵自重・戦禍を招く者たちの縮図として描かれている。潭州攻めの筆致は勇壮に、朗州奪取の筆致は陰険に書き分けられ、通俗小説の域を超えた筆力だと評される。