五代史演義第二十五回 鳳翔を討つも軍帥潰えて帰り、洛陽に入り藩王位を簒う (討鳳翔軍帥潰歸 入洛陽藩王篡位)
從厚の猜疑と諸鎮の移封
- 唐主從厚は応順と改元し、嫡母曹氏を太后、庶母王氏を太妃と尊んで藩鎮の文武に恩賞を与えたが、潞王從珂だけは疑い、その子重吉を亳州団練使に出し、尼となっていた娘の惠明も宮中に召した。
- 從珂は子が外に出され娘が内に召されたことで新帝の猜忌を悟り、明宗の病没時から鳳翔で去就を窺っていた。
- 内侍孟漢瓊は朱弘昭・馮贇と結び、範延光・石敬瑭ら諸鎮の移封を進言し、從珂にも河東への転鎮を命じさせた。
從珂の挙兵準備
- 移封の命を受けた從珂は、代わりに鳳翔へ来る予定の洋王從璋にも警戒し、僚佐と協議。大方は朝命拒否を主張し、諫めた馮胤孫だけが孤立した。
- 從珂は李専美に檄文を書かせ、朱弘昭・馮贇が幼主を擁して国政を私し骨肉を離間させていると鄰鎮に訴え、挙兵の名分とした。
- 西都留守の王思同は誘いを拒み使者を拘束して朝廷に報告。隴州の相裡金だけは内応の意を示した。
鳳翔攻城と諸将の寝返り
- 從厚は王思同を統帥、藥彥稠を副将などとして数万の兵を鳳翔に差し向けた。
- 官軍は東西の関を破り鳳翔城に迫るが、從珂が城上で涙ながらに窮状を訴えると、楊思權が真っ先に降り、続いて尹暉も部隊を率いて投降。王思同ら諸将は総崩れとなって敗走した。
- 從珂は城内の財帛を将士に分け与えて士気を得た。長安副留守劉遂雍も王思同を拒み從珂に帰順し、從珂軍は潼関へ迫った。
康義誠の裏切りと朱弘実の死
- 敗報に動揺した從厚は自ら鳳翔に赴き兄に位を譲ろうとまで口にするが、康義誠が自ら討伐を買って出て兵権を得る。
- 都指揮使朱弘実が禁軍の全軍出動に異を唱えると、義誠は讒言して弘実を処刑させ、禁軍を率いて出発した。
- 從厚は李重吉とその妹惠明を殺させて捷報を待つが、王思同は潼関で捕らえられ、從珂配下の劉延朗に殺害された。
從珂軍の東進と洛陽への迫り
- 從珂軍は華州・閿郷・靈寶と進み、藥彥稠を捕らえ、陝州の康思立も抗しきれず投降。
- 從珂は使者を送って都の文武を安堵させ、京城巡検の安従進も内応を約した。
- 康義誠が率いた禁軍は途中で次々に脱走し、義誠自身も從珂に降を請うた。朱弘昭は召還に恐れて自ら投身し、安従進はその首を斬り、馮贇一族も皆殺しにされた。
從厚の出奔と馮道らの去就
- 朱弘昭・馮贇の死を知った從厚は洛陽を脱出しようとするが、頼みの慕容進に城門を閉ざされ孤立無援となる。
- 宰相馮道らは太后の指示を仰ぐべきとの盧導の諫言を退け、潞王への勧進を図ろうとしたが果たせず、結局都に引き返した。
從珂の即位
- 從珂は陝州で康義誠らに恨み言をぶつけ、孟漢瓊を斬殺。洛陽入りしても梓宮に謁するまでと会見を拒み、馮道らの勧進も無視して太后・太妃と明宗の柩に先に拝礼した。
- 太后の令により從厚は鄂王に廃され、翌日重ねて從珂への譲位が布告されると、從珂はためらわず即位礼を行った。
符讖の逸話
- 鳳翔にいた頃、盲人の術者張濛が神託と称して「三珠並一珠、驢馬沒人驅、歲月甲庚午、中興戊己土」との謎の言葉を伝え、即位の年月と符合したとされる。
- また鳳翔の老人何叟が冥府で「潞王は来年即位し天子として二十三年在位する」と告げられた話も伝わるが、実際の在位はわずか三年で、「二十三」は從珂の幼名(正月二十三日生まれ、綽名「阿三」)に由来するとも言われ、真偽は定かでないと語り手は断っている。
- (詩:兄弟が争い骨肉相食む乱世を嘆く内容)
評語
- 從厚は明宗の後を継ぐ順当な立場にあり、大きな失政もなかったのに早々に滅んだのは、朱弘昭・馮贇ら用人の誤りによる。
- 從珂は勇猛で従榮亡き後も朝廷が籠絡すべき存在だったのに、軽々しく移封で挑発して謀反を招いた。
- 楊思權の先陣を切っての降伏、康義誠の腹黒さも朱・馮に劣らぬ罪であるが、当時の売国の臣は皆先朝の遺老であり、その咎は從厚よりもむしろ後継を選ばずに国を託した明宗にあると評する。